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日中戦争の時代-2   

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前回のエントリーの続きです。

引き続き、 井上寿一著「日中戦争下の日本」から引用していきます。
今回は、少々長くなりますが、「日中戦争の戦争責任」という段落を引用してみます。



■日中戦争の戦争責任

この観点(引用者注:前回エントリ参照)に立つと、私たちは日中戦争の戦争責任をどのように考えればよいのだろうか。

日中戦争の責任を特定の個人や組織に求めるとすれば、すぐに思いつくのは軍部である。ところが現地軍は、盧溝橋事件の四日後には、停戦協定を結んでいる。

盧溝橋事件は偶発な事件だった。満洲事変の直接のきっかけとなった柳条湖事件(1931年9月18日の南満州鉄道の爆破事件)が関東軍による謀略だったのとは、根本的に異なっている。

陸軍中央はどうだったのか。日中戦争の拡大にもっとも強く反対していたのが参謀本部である。対ソ戦を優先する軍事戦略上、中国本土との軍事衝突を回避するのが参謀本部の軍事リアリズムだった。

積極論は陸軍省である。ただし、陸軍省に中国侵略の具体的なプログラムがあったわけではない。陸軍省の立場も同様に、対ソ戦重視である。それゆえ積極論といっても、それは「一撃」で中国を倒すことで事態を早期に収拾し、あとは対ソ戦に備えるためだった。

実際のところ、近衛(文麿)内閣は、いち早く不拡大方針を明らかにしている。近衛首相が平和主義者だったとはいがたい。しかし、近衛の主観的意図が戦争の早期解決にあったことは、ほとんど疑問の余地がない。
近衛内閣の下で、確かに戦争は拡大していく。しかし、この内閣が中国との和平を求め続けたのも事実だったからである。

それでは戦前日本の最高責任者、天皇はどうだったのか。ある論者は、いくつかの事実を挙げて、昭和天皇に日中戦争の拡大の責任があったと指摘している。他の論者は別の事実を挙げて、昭和天皇には責任がなかったと反論している。

「天皇は、統帥大権があった以上、戦争の拡大を防ぐことができたはずだ」。この主張は、明治憲法に関する初歩的な誤りをおかしている。明治憲法の制定者たちは、天皇に具体的な政策判断の責任が及ばないように、天皇親政を否定することで、天皇の「神聖不可侵」性を守ろうとしたからである。

ところが盧溝橋事件の前年、昭和天皇は、立憲君主の立場から逸脱する言動があった。昭和11(1936)年2月26日のクーデタ事件に対する鎮圧の意思表示である。

天皇の政治的意志に依存しなければ、政府は国家意志を決定できなかった。盧溝橋事件が起きたのは、明治憲法を前提とする政治体制が大きく揺らいでいるときだった。

他方で政党や国民は、戦争に反対するどころか、自発的な戦争協力をおこなっている。政党のなかでも、労働者や農民の党だったはずの無産政党が、政友会や民政党に先駆けて、いち早く戦争に協力する積極的な姿勢をとった

国民も戦争に協力している。国家が国民をマインドコントロールしていたからではない。近年の研究が明らかにしているように、昭和7(1932)年5月の政友会の犬養(毅)内閣崩壊後も、国民は政党内閣の復活を望み、昭和11(1936)年2月、昭和12(1937)年4月の総選挙のたびごとに、民政党に第一党の地位を与え、社会大衆党を躍進させた。
社会民主主義的な改革を目標に掲げる「昭和デモクラシー」が確実に進展していた。

盧溝橋事件が起きたのは、「昭和デモクラシー」が発展する過程においてである。したがって、この事件をきっかけとして、国家が急に国民をマインドコントロールできるようになるはずがなかった。国民の戦争協力は、国家が強制したのではなく、間違いなく自発的なものだった
(P.6~)

ここでおさえておくべきは、戦前の日本においては、仮に権力の中枢にいる誰かが戦争を始めたいと思ってもそれだけで対外戦争を始められるような国家体制ではなかったということです。

関東軍の暴走によって始まった満洲事変や、東条英機らA級戦犯が対米開戦の最高責任者のようにクローズアップされることもあったりするため、誤解されていることも多いように感じるのですが、明治憲法下の首相(正確な言い方ではないですが)は、現憲法下の首相よりも権力がないのです。

また当時の日本国民が戦争を支持していたこともわりと知られていると思いますが、なぜ支持していたのかについては、言論統制やマスコミ(新聞)の責任として片付ける傾向があるように感じます。

私自身、かつて何度も紹介している「太平洋戦争と新聞」という本を読んでからは特に、新聞が軍部礼賛、戦争支持の方針をとったから国民もそうした、と考えていたこともあったのですが、それは早計のようです。
もっと、視野を広げてあの時代の日本の政治や国民生活をも合わせて考えていかないと、国民が戦争を支持した理由がみえてこないようです。


労働者が、農民が、女性が、子どもが、誰もが戦争に協力した。侵略戦争に協力した以上、国民は皆、加害者である。他方で国民は、被害者でもあった。

戦争は社会的弱者を直撃する。主な働き手を兵隊にとられた銃後の家族は、身内から戦死者を出し、経済的に困窮した。国家が国民の事由を奪った。「ファシズム」の重圧が国民の生活を極限まで追い詰めた。

それでも日中戦争下の国民が、一方的な被害者意識を持つことはなかった。労働者は資本家に対して、女性は男性に対して、子どもは大人に対して、それぞれが戦争を通して自立性を獲得することに掛け金をおいたからである。

国民は、被害者である前に、ましてや加害者意識を持つこともなく、戦争に協力することで、政治的、経済的、社会的地位の上昇をめざした
(P.9~)

この部分は、まだ話が抽象的でわかりにくいかもしれません。
長くなったので、あえて簡単に補足するとしたら、当時の日本は現代とは比べものにならないほどの「格差社会」であったことを念頭におけばみえてくるかも知れません。


次回もこの本から引用する予定・・・


■関連エントリ

日中戦争の時代-1
・日中戦争の時代-2
日中戦争の時代-3 (労働組合が望んだ白米食禁止と格差是正)


■参考書籍
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コメント

天皇の統帥権についてですが、天皇は立憲君主としての自覚を持っていたので、自分が独裁者にならないよう軍や政府が決定したことに対しては決して反対しなかった、というロジックで戦争責任を否定する言説は一般的なものではないかと思われます。どうやら井上さんも同じように考えているみたいですが、それは皮相的な見解だと言わざるを得ないでしょう。

確かに天皇は、軍や政府の最終決定案に対してはそのまま受け入れることを原則としていましたが、いわゆる「内奏」の段階ではむしろ積極的に自分の意見を反映させていること、そして軍部には制度上の「輔弼責任者」が存在せず、また天皇自身も「大元帥」という自意識を強く持っていたこと(他に権力を行使できる領域がないですからね)などがその証拠として挙げられます。
井上さんが言っている盧溝橋事件の前、満州事件の際に天皇が田中義一を叱責し辞職に追い込んだ話がありますが、その際も事前に側近と打ち合わせを行い、辞職に追い込むと決めた上で叱責したことが『牧野伸顕日記』を読むとわかります。

近衛内閣が中国との和平を求め続けていた、というのもどうでしょう。南京事件の少し前、蒋介石が和平の条件を伝えてきたときには、閣議で「だいたい敗者ついての言辞無礼なりと結論に達し、その他みな賛同せり」というありさまだったようですし。

引用部の最後のあたりはよくわからないですね。今後の記事で触れていただけることを期待します。

責任というものがどこにあったのか、なかなか面白そうな読み物ですね。こういったところが不明なまま、というのが偽装食品(建築) 粉飾決算会社につながっていると考えます。

コメントありがとうございます

■tukinohaさん

こういう一般向けの本では、どうしても一見して皮相的な箇所は出てきてしまうかなぁと思います。
一口に「責任」といっても法的責任や政治的責任、道義的責任などいろいろとに分類することができますし、上記引用箇所にはありませんが、この責任分類に基づいて著作の中で触れる箇所と触れない箇所を明示しています。
tukinohaさんが言及された天皇の責任についても、この著作のプロローグ部分の話の流れの中で少し触れているに過ぎませんので、井上氏がどう考えているかはこの部分だけではちょっと判断つかないかな?という気はします。
(法的責任については明治憲法の法解釈の問題になるでしょうし)

>「内奏」の段階ではむしろ積極的に自分の意見を反映・・・

これは私も何かで読んだことがあります。大命降下の際には新首相には指示(?)していたようですね。東条内閣成立時も、対米戦争反対の意志を示したとか・・・。ただ個々の事例に於いて、どの程度具体的で、またどの程度国家方針を左右したかどうかまで詳しく調べたことはまだないです。

>軍部には制度上の「輔弼責任者」が存在せず・・・

これはたとえば陸軍では三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)に分立していたり、他に軍事参議官もいたり、ということでしょうか?
陸と海とが別個に独立した組織であったこととか・・・。
とかく戦前の諸問題については、責任の所在がわかりにくいと思うことが多いですね。


>田中義一を叱責し辞職に追い込んだ・・・

これは満州事変(柳条湖事件)ではなくて、張作霖爆殺の時ですよね。
↑「満州某重大事件」のことですね。「事件」を「事変」と読み違えていました。失礼しました。
話は逸れますが、なんでこのとき首相を叱責したのかがよくわからないんです。明治憲法下なら、首相ではなく陸軍責任者(教育総監?)を叱責するのがスジのような気が・・・
統帥権干犯問題よりも前の事件だから、昭和天皇も田中首相本人もあまり理解していなかったのかな?とか・・・。


>近衛内閣が中国との和平・・・どうでしょう。

この部分は私も最初違和感を感じました。おっしゃるとおり、事変初期を見る限りはとてもそうは思えないですしね。
ただ、この本を通読したあとはその違和感も薄れました。近衛内閣(第一次)を通期で見ていけば(当初の方針を変更し)和平を求めていた、というのが井上氏の主旨のようです。確かに政治史・外交史で見るとそういう動きがあるようです。
もっとも、同じ時期を戦史で見るとまるで別の日本の顔があらわれますが・・・。それに一口に軍と言っても、あの広大な地域に100万の日本兵ですから、一概に語るのは難しそうですね。

歴史を専攻されているtukinohaさんからのコメントは、素人勉強中の私にとって、とても良い刺激になります。
おかしな所があったら、遠慮なくツッコんでください^^


■ろーりんぐそばっとさん

>責任というものがどこにあったのか・・・

残念ながら、責任がどこにあったのか?というのがこの本のテーマではないです^^;
本の帯にあるのは「なぜ国民はあの戦争を支持したのか」。また著者本人による説明では、「この本がめざしたのは、侵略と民主化とを同時に進めようとした日本社会のシステムの不調を明らかにすること」です。
http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0708/index02.html

id:abesinzouさんが山田朗教授の「大元帥 昭和天皇」(新日本出版社,1994年)の後書きを紹介していますよ。

昭和天皇はどれだけ戦争に関わったのか?天皇の戦争責任 - 従軍慰安婦の深層
http://d.hatena.ne.jp/abesinzou/20080618

>これは満州事変(柳条湖事件)ではなくて、張作霖爆殺の時ですよね。
↑「満州某重大事件」のことですね。「事件」を「事変」と読み違えていました。失礼しました。

ものすごく好意的に解釈していただいて恐縮なんですが、素で間違えただけなんです!寝起きで頭がボケていたため、2重に間違えただけなんです!
と、初歩的なミスをやらかした後では説得力ゼロかもしれませんが、少し補足しておきます。

張作霖爆殺事件の4ヶ月後には陸相の白川義則も日本軍の仕業と認め、田中義一にそれを報告しています。そこで田中は責任者を処分することに決め、天皇にその旨を奏上しました。ところが、陸軍出身のくせに陸軍に影響力のない田中の悲しさ、陸軍内部から猛反発が起こって当初の処分案を引っ込めざるを得なくなってしまいました。それで天皇は、処分すると言ってたのに約束と違うじゃないか、と田中を責めたのです。
田中はそれを天皇の不信任と受け取り辞職、天皇はそれ以降自分の影響力を自覚して発言に気をつけるようになりました、というのが一般的な見方ですが、そんなことはないというのは先述した通り。

輔弼責任者の話については、家永三郎が『戦争責任』という本の中で以下のように書いています。
「国務大臣は、天皇の意思が違法または国家のために不利と考える場合には、天皇の意思を変えさせる努力を尽す任を帯びているのであって、君命に藉口して責任を逃れることのできない特別の職責を有する。(中略)これに対し、参謀総長・軍令部総長は、大元帥としての天皇を頂点とし、兵卒を底辺とする上命下服(絶対服従)の規律の一環をなす最高幕僚長にすぎないのであるから、天皇と意見を異にすることがあっても、その命令には服従する義務を有する。つまり、軍に関しては、天皇は輔弼者として代わって責任を負う機関をもたぬ専制君主であることを免れなかったのである。」
実態としてはどうか、というのは難しい問題ですが、やっしゃんさんが挙げている山田朗先生の研究(『昭和天皇の戦争指導』などが有名)を見る限りでは、やはり「大元帥」として振舞っていたと考えるのが妥当でしょう。

■やっしゃんさん

こちらはFC2なので、はてな記法(id記法)で書かれても自動リンク変換はされないです^^;
って、それはさておき、リンク先の紹介ありがとうございます。参考になりました。
コメント欄の流れ上、天皇の戦争責任の話になっていますが、あえて正直に言うと、私は天皇の責任論にはあまり関心が湧かないんですよ。
私の近代史への関心は、「あのとき何があったのか」「どうしてそうなったのか」ということにあって、「誰が悪いのか」ということではないので・・・。

日本の戦争について、「天皇の責任」とか「A級戦犯の責任」と特定少数の人物に押しつけてしまうと、日本が当時内在していた他の問題が霞んでしまうおそれがありますし、同時に、当時の対戦国の思惑や動きへの注意も向きにくくなりますしね。

それに現行憲法下ではもう起こりえないことですし、どんなタカ派であってもさすがに天皇主権復活とは言っていないですしね。
逆に、民主主義国家においても9.11の時の米国民ように国民が戦争支持するような状況のほうが、今後の日本においても起こりうる可能性はあり得ると思うので、そこをどうすべきかを歴史を見ながら考えたいなどと思ってみたりしています。
だいぶ前にも一度書きましたが、単に「あの時代」に戻らないようにするだけでは今後起こりうる戦争の危機は回避できないと思うので。

■tukinohaさん

諒解しました^^; では、弘法も筆の誤りということで(笑)

補足もありがとうございます。張作霖爆殺事件後の経緯は、私のうろ覚えの知識で合っていたようです。たしかに、「処分する」と言っておきながらできなかったので、叱られてしまうのは当然ですしね。でもその時、天皇に統帥大権があるという自覚があったのなら、同時に軍にも処分を命じることはしなかったのかなぁ?というところが勉強不足でよくわからんところです。

>天皇はそれ以降自分の影響力を自覚して・・・

たしかに軍事については色々意見を述べたりしていたことは数々の証拠があるようですが、それでも二・二六事件の時にも、たしか西園寺公望にたしなめられたりしていますよね・・・?あまり口出しをしなくなったというのは、むしろ二・二六事件の後ではなかったでしたっけ?
このあたりも私もまだまだ勉強不足なんですが・・・。

そもそも明治の元勲が天皇の権威を利用するような仕組みにしていたから、元勲がいなくなっていくとともに色々な弊害が出てきたのが昭和初期の日本の最大の悲劇なのかなぁ、などと勝手に想像してみたりしています。

天皇の戦争関与

海軍木更津航空隊
Wikipediaにも書かれていますので、詳しくは調べて下さい.
満州事変によって、陸軍は、軍事的に見れば大戦果を上げたと言えます.海軍は、陸軍に対抗して、中国で戦争を行うために、長距離爆撃機を開発し、渡洋爆撃隊を創設することを考えました.発案者の一人(中心)は山本五十六です.そして96式陸上攻撃機が開発され、木更津航空隊と鹿屋航空隊が開設されました.
北支事変に際して、海軍は陸軍を支援するために、天津方面に艦砲射撃を行っています.そして1937年7月11日、渡洋爆撃隊の司令部を鹿屋に置き、更に8月8日には、木更津航空隊は大村(済州島)へ、鹿屋航空隊は台湾へ進出しました.(進出と同時に作戦行動に移る予定だったのが、台風により延期されたと言われています.)
通州事件は、日本軍の北京進駐に端を発して起きました.通州事件は海軍の管轄地域で起きた事件であり、事件からおおよそ一週間の準備期間の後、海軍は8月8日に具体的な作戦行動に移りました.大山大尉の事件は8月9日であり、その一日前に、海軍は渡洋爆撃の具体的な作戦行動を起しています.

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昭和天皇の船津工作についての発言(嶋田繁太郎大将無題備忘録)
8月6日、支那沿岸および揚子江方面に於ける用兵関係にて上奏。(軍令部総長)

「近衛首相の話によれは船津か上海にて内面交渉を行う由なるが、うまく行けば宜しいが、
若しこの条件にて支那が同意せさるなれは寧ろこれを公表し、
日本がかく公明正大の条件を出したるに支那同意せさるなりとせば、各国の世論も帝国に同情すへし。
 出来るだけ交渉を行い纏らされは止むを得ず戦うの外なし。
先日参謀本部の話に、長引く時に露を考慮するの必要上、支那に大兵力を用い得ずとの事なるがやれる丈けやるの外なし。
 陸軍も困ったものなるも、海軍のみにてもしっかりやる様に」
--------------------------------
1937年7月の末、日本軍を北京進駐を果しました.この結果を受けて、7月29日、昭和天皇は『そろそろ講和を』と言い、その言葉に従って、石原莞爾は船津工作を始めました.
ところが、同じ7月29日、通州事件が起こり、午後になって、報告が天皇にも届きました.
一週間後の8月6日には、昭和天皇は、自分が言い出した舟津工作には期待していないのが分ります.そして、それだけではなく、陸軍に派兵を要請したけれど良い返事をしなかったので、海軍だけでもしっかりやれ、と言っています.
今一度書けば、8月6日に昭和天皇は、『海軍だけでもしっかりやれ』と言い、その二日後の8月8日、木更津航空隊、鹿屋航空隊は作戦行動を開始ししています.

満州事変は、陸軍が勝手に起しました.
熱河省への侵攻は、『熱河までは仕方がないか』と言った様な天皇の言葉で、陸軍は侵攻しました.
北支事変、北京への進駐は、海軍が天津方面に艦砲射撃を行って陸軍を支援しているので、陸海軍を調停するために、それなりの天皇の関与があったと考えられます.
第二次上海事変の時点では、天皇は陸軍に派兵を要請したが断られ、海軍だけでもやれと言った.つまり、陸海軍両方に対して、戦争を行うことを要求しています.
書き加えれば、木更津航空隊は、普段は首都防衛の任務に就いていて、天皇はその兵力について良く理解していたはずであり、この部隊の作戦行動とは、南京に渡洋爆撃を行うことであることを、理解した上で話をしていると考えられます.

天皇の戦争関与2

昭和天皇は1937年8月18日、閑院宮参謀総長に下問した。(陸軍参謀総長)
「いろいろな方面に兵を用いても戦局は長期化するばかりである。重点方面に兵を集中し大打撃を加え、我々の公明なる態度を以って和平に導き、速やかに時局を収拾する方策はないか」
---------------
第二次上海事変が勃発し、8月15日に海軍は、南京に対して渡洋爆撃を行いました.そして、陸軍の上海派兵も決定して、8月18日にはその準備もはじまっています.
『速やかに時局を収拾する方策はないか』と、天皇は聞いていますが、単に聞いただけなのでしょうか?
私の理解によれば、『海軍は南京を爆撃して、蒋介石に大打撃を与えつつある.陸軍も(方策を考えて)南京を攻撃して大打撃を与えよ』、このように言ったのだ思います.現実に、陸軍は南京を攻撃することになります.
---------------
大本営設置せらる
陸軍省新聞班
上海方面に作戦中なる陸軍将兵に対し十一月二十日午後二時三十分幕僚長の宮殿下を召させられ優渥なる勅語を下賜あらせられた。
勅 語
上海方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ克ク海軍卜協力シ障礙ト抵抗トヲ擠排シ敵前上陸ヲ敢行シ交錯セル深濠連続セル
堅塁ノ間ニ勇戦激闘果敢力攻寡兵能ク敵ノ大軍ヲ撃砕シ以テ皇威ヲ中外ニ宣揚セイ朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ミス其ノ
敵弾ニ殪レ病瘴ニ仆レタル者ニ思ヒ及へハ惻愴殊ニ深シ惟フニ派兵ノ目的ヲ達シ東洋長久ノ平和ヲ確立セムコト
前途尚遼遠ナリ爾等益々志気ヲ淬?冱シ艱難ヲ克服シ以テ朕ノ信倚ニ対へヨ

1937年11月5日の抗州湾上陸により、蒋介石軍は背走し上海戦の勝敗は決定しました.11月20日、蒋介石は南京放棄、重慶遷都を決定し、日本は、勅令により法律を改正して、大本営を設置しました.
私の解釈では、現地軍に対する勅語で天皇は以下のように言っています.
『戦争の目的を達成するのは、まだまだだ.なおいっそう奮闘し、朕の期待に答えよ』

『我々の公明なる態度を以って和平に導き』、『派兵ノ目的ヲ達シ東洋長久ノ平和ヲ確立セムコト』、和平に導き、平和を確立するために(大悪人の)蒋介石に大打撃を与えよ.8月18日の言葉も、勅語も同じことを言っているのが分ります.
なんのために日本は大本営を設置したのか、南京を攻撃するためであるのは疑う余地はないはずです.その勅語で、『戦争の目的を達成するのは、これからである』と言っている.つまり、蒋介石に大打撃を与えるために南京を攻撃することが、昭和天皇の戦争の目的であったと言えます.
今一度書けば、木更津航空隊は普段は首都防衛にあたっているが、中国を爆撃するために大金をかけて製作した航空機を配備した航空隊であるのは、当然、天皇は知っていたはずである.蒋介石に大打撃を与えることを目的にして開設された渡洋爆撃隊が、天皇の要望により作戦行動を開始するところから、第二次上海事変の日本の軍事行動は始まっています.それは大山大尉の事件が起きる1日前です.

天皇の戦争関与3

先に書いた、『1937年8月6日、海軍軍令部総長の、支那沿岸および揚子江方面に於ける用兵関係にて上奏』から、天皇の戦争への関与が始まったと考えられます.(7月29日に講和を行えと言って、実際に舟津工作が始まっているので、戦争責任としてはここで分断されています)
では、天皇の戦争への関与の終わりは、いつのことなのでしょうか.8月15日の敗戦の決定、ポツダム宣言の受諾の決定でしょうか?
第二次世界大戦は、9月2日、ミズーリ号にて降伏条約に調印して終わりました.そして、サンフランシスコ条約により、アメリカの占領が終了しました.
条約締結に際して吉田茂は、少しでも日本にとって対等な条約になるように交渉するつもりだったのですが、その頃、ソ連が、また戦争責任の話を持ち出してきたので、追求を怖れた昭和天皇は、吉田茂に条約締結を急がせました.
昭和天皇は象徴天皇になってからも、首相らを呼んで色々な情報を得て、なおかつ自分の意見を言って、アメリカ外交にかかわる政治に関与していました.昭和天皇は、法律など全く無視した権力を持っていて現実に行使しているのです.ですから明治憲法の規定、統帥権等、法律上の観点から天皇の戦争責任を追求しても、全く意味がありません.
昭和天皇は、皆の意見に従って戦争を行ったのではありません.皆が天皇が何を考えているか考えて、天皇の意向に添った意見を纏め、天皇はその意見を裁可して戦争を行いました.部下は上司が何を考えているか、それを考えて行動するのだ、以前、阿久根市長をしていた人が言っていましたが.

第二次上海事変以降の日中戦争は、昭和天皇が始めました.アメリカに対する戦争に昭和天皇は反対しましたが、日本が中国と戦争を行っているからアメリカと戦争になったのであり、アメリカと戦争を避けるならば、昭和天皇は自分が始めた中国との戦争を止めると言わなければならないのに、言いませんでした.日中戦争が終結したのは、1945年9月2日です.
様々な昭和天皇の戦争への口出しは、本に書かれているので読んでいただくとして、簡単に二つ書かせて下さい.
昭和天皇は、短波ラジオを持っていて、戦争中、アメリカの日本向けの宣伝放送を聞いていたそうです.『日本軍は弱い.本当に強かったら今すぐ、バターン半島を攻撃して見ろ』これを聞いた天皇は激怒して、参謀総長の杉山元を呼びつけた結果が、バターン半島死の行軍を起すことになりました.
『ガダルカナルのことは仕方がない.ニューギニアでは頑張れよ』参謀総長の杉山元は、『はい、頑張ります』と答えたのですが、まともな地図もない土地で、現実的にどの様にすれば良いのか、頑張る中身がありません.ただひたすら頑張って悲惨な結果に終わったのがニューギニア戦です.皆、天皇の希望に従って、戦争を行いました.天皇が止めろと言うまで頑張ったのです.
---------------------------
戦争終結までは、昭和天皇が神様でした.戦後はマッカーサーが神様になりました.サンフランシスコ条約締結後は、アメリカが神様になって、様々な面で日本の政治を動かしています.アメリカに逆らう首相は短命政権、アメリカの意向に従う首相は長期政権になる.実は戦前と何も変わっていない、だからこそ、昭和天皇の戦争責任を追及し、神様の意向に従う政治を止めなければいけないと考えるのですが.
長々と、失礼しました.

自主独立

小泉純一郎
靖国神社参拝->中国、韓国の反日感情が高まる->呼応して日本の反中、反韓感情が高まる.
日本人の人心が反中、反韓感情で纏まることを利用して、彼は対米従属路線を実行した.
彼は、対米従属政策に対する批判が高まると、靖国神社を参拝して、中国、韓国の反日感情を煽り、それに対する日本人の反中、反韓感情を高めることによって、自分の政策への批判をかわしました.
-------------------------
松井石根
彼は、日本人、中国人の血の混じった土を南京より取り寄せ、その土で作った興亜観音を伊豆に建立しました.
そして、彼は東京裁判で有罪になり死刑になったのですが、その際、南京の事件に対して反省の言葉を花山教誨師に残しています.
悪いことをしたら謝るのは当然であり、単純に戦争は悪いものである、彼はこのことを示し、実行して、更に死刑になっている、この事実を日本人は知るべきであり、中国にも示すべきであると思います.犠牲者の数が問題ではなく、戦争に関する国際法の問題でもない.戦争を行うこと、全ての間違いがここにある、このことを忘れてはならないはず.
東京裁判がインチキであるので、A級戦犯がどうのこうのという、靖国神社の問題はどうでも良いと思います.
それよりも、松井石根に習って、戦争の全ての犠牲者を対象にした慰霊祭を、敗戦記念日に行うべきではないでしょうか.戦争は悪いものである、最も基本的な認識を、世界に示す必要がある.このことが、対米従属から脱却し、自主独立を目指す基礎になると思うのですが?

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