
1940年(昭和15 )2月2日、衆議院で民政党・斉藤隆夫議員がいわゆる「反軍演説」を行いました。日中戦争(支那事変)が始まって2年半あまりたったときのことです。
この「反軍演説」と斉藤隆夫議員についてよく見られる解説としては、
「この演説は軍などの強い反発を招き、議員除名処分を受けた。しかし1942年(昭和17)の総選挙では、軍部を始めとする権力側からの激しい選挙妨害を受けながらも、国民から高い支持を受けて翼賛選挙の中、再選を果たす」
というものでしょう。
また、斉藤議員は満洲事変後の軍部の政治介入を批判した「粛軍演説」(1936年(昭和11))を行ったことでも知られており、「日中戦争下であっても国会で堂々と軍部批判演説を行った人物」として評価する声がでてくるのも当然かも知れません。
(右下写真は、反軍演説中の斎藤隆夫)
しかし、「反軍演説」という表現が適切なのか、あるいは「反軍演説」という言葉から連想される、「反戦運動家」や「平和主義者」というイメージが、この斉藤隆夫の演説の趣旨を適切に伝えているかどうか?といえば、実はかなりアヤシイといわざるをえないと思います 大いなる誤解を招いていると考えられます。
あるいは、「反軍演説」という言葉が一人歩きして事実関係が歪められているような気さえしますと言ってもよいでしょう。
(2008.11.7 修正 このエントリーをアップ後に斉藤議員の戦争観などを調べた結果、今では「反軍演説」という呼称は印象を歪める不適切なものと考えています)
この件について、「反軍演説」の内容に触れながら何回か書いてみようと思いますが、まず、今読んでいる「日中戦争下の日本」から、引用してみます。
「反軍演説」としてよく知られるこの質問演説で、斉藤が強く批判したのは、「いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑居し」の一節に現れているように、国民に多大の犠牲を強いながら、日中戦争の目的が「東亜新秩序」の樹立といった抽象的なもので、領土も賠償金も取らないという政府の基本方針に対してである。
このような内容の斉藤の演説は、決して「反軍演説」ではなかった。
しかし、斉藤の演説が「反軍演説」と賞賛されたのは、既成政党の復権とそれを支持する国民世論があったからである。斉藤の元には全国から激励、感謝の多数の手紙が寄せられた。
ところが斉藤は、懲罰委員会にかけられる。結果は、もっとも重い除名処分だった。斉藤の除名決議に反対したのは、議員総数447名中わずか7名、民政党を含むほとんどの政党が除名に賛成した。
社会大衆党は、総議員数34名中、除名に賛成23,反対0、棄権11である。なぜ議会はこのような結果をもたらしたのだろうか。
(P.126)
軍部の圧力で斉藤が議員除名されたかのような説明を一部で見かけることがありますが、議会政治として多数決方式で決議されたというのが実態です。なお、引用箇所にはありませんが、棄権は144票だったとのこと。
引用を続けます。
これらの数字は、斉藤演説を「反軍演説」と理解する限り、説明がつかない。斉藤演説の争点は、日中戦争に賛成か反対かではなく、「この戦争は何なのか?」だった。
社会大衆党からすれば、斉藤演説の戦争観は、日中戦争を帝国主義戦争とみるものだった。帝国主義戦争には勝ち負けがあり、勝てば領土や賠償金を獲得するのが当然だった。
社会大衆党は、このような帝国主義戦争には反対の立場を堅持していた。社会大衆党にとって、日中戦争は、帝国主義戦争であってはならなかった。
日中戦争の目的は、近衛内閣の声明にあるように、「領土的野心を有せず」、「東亜新秩序」の形成にあったからである。
社会大衆党は、斉藤演説が日中戦争の目的を矮小化していると批判した。斉藤演説問題は既成政党の復権が著しい傾向の中にあって、社会大衆党が失地挽回を図る絶好の機会となった。
もっとも、既成政党とはいえ、同じ政党組織の民政党の議員を、野党的な立場に立っていた社会大衆党が、政府の側に回って、除名することには割り切れないものがあったはずである。棄権の11票は、実質的には除名反対だったと推測できる。実際のところ、社会大衆党は、斉藤演説問題への対応をめぐって、党内が分裂状態に陥っていく。
(P.126~127)
引用が少々長めになりました・・・。
上記の見解は、引用した「日中戦争下の日本」の著者・井上寿一氏(日本政治外交史)のものです。中には意外に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、「反軍演説」の全文に目を通せばその是非が明らかになると思います。
次回から、この「反軍演説」を引用しつつ、私見を書いてみたいと思います。
なお、上記の『日中戦争の目的は・・・「東亜新秩序」の形成にあった』という部分には異論のある方も多いと思います。私としては慎重に判断したいところですが、「東亜新秩序」は具体的政策を伴っていたことを考えれば単なるプロパガンダや詭弁と言い切ることはできないと、今のところ考えています。ただ、この件を書こうとすると脱線してしまうので、それは別の機会に譲ります。
■追記
NHK番組「その時歴史が動いた」で斉藤隆夫の反軍演説をテーマに取り上げた回の動画がネットにありましたので(一応)貼っておきます。(42分14秒)
反軍演説の肉声も聞けます。
まぁ、1930年代の日本のイメージの描き方がやや左っぽいですが。
(国民も積極的に戦争に協力したと言うことに触れずに、一方的に権力の横暴に屈する国民、という構図が・・・。「国民の声を議会に届けたい」というのは正しいが、その「国民の声」がどういうものかはも触れてませんし。「反軍演説」の都合の良い部分をトリミングしている気がします。まぁ、一つの見方ではありますけど・・・なんで私がそう思うかは、追々書いていきます)
・2008/6/26さらに追記
改めて斉藤演説の全文を読み直し、そしてこの動画を再度見ましたが、やはり随分と印象が異なっています。トリミングの効果といえるでしょう。
・2008/7/20追記
斉藤隆夫議員のいわゆる「反軍演説」やその他の演説・論説集に一通り目を通したところ、斉藤隆夫議員の戦争観がだいぶ見えてきました。反軍演説の後半にもそれは現れていますが、反戦思想とはまったく相反するものをもっていたようです。
さすがに日本の敗色が濃厚になってきたころには少し変わってきているようにも感じましたが、斉藤の考えは「世界から戦争は絶対になくならない」「世界は徹頭徹尾弱肉強食の世界」という点で筋が通っています。あえて「反軍」といえるのは、「軍人の政治関与は絶対にダメ」ということくらいでした。国際競争には戦争が伴い、戦争には侵略が伴うが、侵略は決して邪悪にあらざるのみならず人類進歩の必要条件である。侵略しなけれは人類は進歩せず、世界 の文明も発達せない。若し之を疑う者あらば、過去数千年来世界に戦争起らず、侵略もなかったとするならは、今日世界はどうなって居るであろうか。」
1941.09「戦争の哲理」
そういうわけで、斉藤議員の19402.2の国会演説を「反軍演説」と呼ぶのは、その印象を誤誘導するものであり、もし現代においてもこの演説を賛美するのなら、批判をおそれずに持論を展開する勇気、という程度でとどめる方がよろしいかと。
あと、斉藤議員は当時、国民からの支持が厚かったようですが、これについても「国民が戦争に反対していた」からと捉えると辻褄が合わないところがでてきそうです。
「国民の声を代弁してくれる議員」としての人気があったということならば、当時軍事的に勝利したも同然の大陸において、「いつになったら終わるのか」と言う厭戦感情(≠ 反戦感情)と同時に、「戦争(事変)の決着は既についたも同然なのに、賠償金も領土も取らないという政府の声明はおかしいじゃないか」と国民が考えていた可能性も看過することはできないでしょう。
そう考えれば翼賛選挙(1942)時にも当選できたのは、「国民の声を代弁してくれる議員」への期待であって、その国民の声とは「戦争を止めろ」ではなかったのかもしれません。翼賛選挙時の戦況を考えれば、むしろそう思えます。
ただ、翼賛選挙の時の斉藤への妨害は凄まじかった(ほとんど軟禁状態)ことは間違いないようです。
■続編エントリ(ぜひこちら↓もどうぞ )
・斉藤隆夫議員「反軍演説」を読む-1
・斉藤隆夫議員「反軍演説」を読む・・・の続きですが・・・
■参考書籍
日中戦争下の日本 (講談社選書メチエ) | |
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アジア主義を問いなおす (ちくま新書) | |
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