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TOP > 歴史認識 > title - 斉藤隆夫の「反軍演説」は"反軍"ではない?

斉藤隆夫の「反軍演説」は"反軍"ではない?   

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1940年(昭和15 )2月2日、衆議院で民政党斉藤隆夫議員がいわゆる「反軍演説」を行いました。日中戦争(支那事変)が始まって2年半あまりたったときのことです。

この「反軍演説」と斉藤隆夫議員についてよく見られる解説としては、

「この演説は軍などの強い反発を招き、議員除名処分を受けた。しかし1942年(昭和17)の総選挙では、軍部を始めとする権力側からの激しい選挙妨害を受けながらも、国民から高い支持を受けて翼賛選挙の中、再選を果たす」

というものでしょう。


また、斉藤議員は満洲事変後の軍部の政治介入を批判した「粛軍演説」(1936年(昭和11))を行ったことでも知られており、「日中戦争下であっても国会で堂々と軍部批判演説を行った人物」として評価する声がでてくるのも当然かも知れません。
右下写真は、反軍演説中の斎藤隆夫182

しかし、「反軍演説」という表現が適切なのか、あるいは「反軍演説」という言葉から連想される、「反戦運動家」や「平和主義者」というイメージが、この斉藤隆夫の演説の趣旨を適切に伝えているかどうか?といえば、実はかなりアヤシイといわざるをえないと思います 大いなる誤解を招いていると考えられます。
あるいは、「反軍演説」という言葉が一人歩きして事実関係が歪められているような気さえしますと言ってもよいでしょう。

(2008.11.7 修正 このエントリーをアップ後に斉藤議員の戦争観などを調べた結果、今では「反軍演説」という呼称は印象を歪める不適切なものと考えています)

この件について、「反軍演説」の内容に触れながら何回か書いてみようと思いますが、まず、今読んでいる「日中戦争下の日本」から、引用してみます。

反軍演説」としてよく知られるこの質問演説で、斉藤が強く批判したのは、「いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑居し」の一節に現れているように、国民に多大の犠牲を強いながら、日中戦争の目的が「東亜新秩序」の樹立といった抽象的なもので、領土も賠償金も取らないという政府の基本方針に対してである。

このような内容の斉藤の演説は、決して「反軍演説」ではなかった。

しかし、斉藤の演説が「反軍演説」と賞賛されたのは、既成政党の復権とそれを支持する国民世論があったからである。斉藤の元には全国から激励、感謝の多数の手紙が寄せられた。

ところが斉藤は、懲罰委員会にかけられる。結果は、もっとも重い除名処分だった。斉藤の除名決議に反対したのは、議員総数447名中わずか7名、民政党を含むほとんどの政党が除名に賛成した。

社会大衆党は、総議員数34名中、除名に賛成23,反対0、棄権11である。なぜ議会はこのような結果をもたらしたのだろうか。
(P.126)

軍部の圧力で斉藤が議員除名されたかのような説明を一部で見かけることがありますが、議会政治として多数決方式で決議されたというのが実態です。なお、引用箇所にはありませんが、棄権は144票だったとのこと。
引用を続けます。


これらの数字は、斉藤演説を「反軍演説」と理解する限り、説明がつかない。斉藤演説の争点は、日中戦争に賛成か反対かではなく、「この戦争は何なのか?」だった。

社会大衆党からすれば、斉藤演説の戦争観は、日中戦争を帝国主義戦争とみるものだった。帝国主義戦争には勝ち負けがあり、勝てば領土や賠償金を獲得するのが当然だった。

社会大衆党は、このような帝国主義戦争には反対の立場を堅持していた。社会大衆党にとって、日中戦争は、帝国主義戦争であってはならなかった

日中戦争の目的は、近衛内閣の声明にあるように、「領土的野心を有せず」、「東亜新秩序」の形成にあったからである。

社会大衆党は、斉藤演説が日中戦争の目的を矮小化していると批判した。斉藤演説問題は既成政党の復権が著しい傾向の中にあって、社会大衆党が失地挽回を図る絶好の機会となった。
もっとも、既成政党とはいえ、同じ政党組織の民政党の議員を、野党的な立場に立っていた社会大衆党が、政府の側に回って、除名することには割り切れないものがあったはずである。棄権の11票は、実質的には除名反対だったと推測できる。実際のところ、社会大衆党は、斉藤演説問題への対応をめぐって、党内が分裂状態に陥っていく。
(P.126~127)

引用が少々長めになりました・・・。

上記の見解は、引用した「日中戦争下の日本」の著者・井上寿一氏(日本政治外交史)のものです。中には意外に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、「反軍演説」の全文に目を通せばその是非が明らかになると思います。

次回から、この「反軍演説」を引用しつつ、私見を書いてみたいと思います。

なお、上記の『日中戦争の目的は・・・「東亜新秩序」の形成にあった』という部分には異論のある方も多いと思います。私としては慎重に判断したいところですが、「東亜新秩序」は具体的政策を伴っていたことを考えれば単なるプロパガンダや詭弁と言い切ることはできないと、今のところ考えています。ただ、この件を書こうとすると脱線してしまうので、それは別の機会に譲ります。

■追記
NHK番組「その時歴史が動いた」で斉藤隆夫の反軍演説をテーマに取り上げた回の動画がネットにありましたので(一応)貼っておきます。(42分14秒)
反軍演説の肉声も聞けます。

まぁ、1930年代の日本のイメージの描き方がやや左っぽいですが。
(国民も積極的に戦争に協力したと言うことに触れずに、一方的に権力の横暴に屈する国民、という構図が・・・。「国民の声を議会に届けたい」というのは正しいが、その「国民の声」がどういうものかはも触れてませんし。「反軍演説」の都合の良い部分をトリミングしている気がします。まぁ、一つの見方ではありますけど・・・なんで私がそう思うかは、追々書いていきます)

・2008/6/26さらに追記

改めて斉藤演説の全文を読み直し、そしてこの動画を再度見ましたが、やはり随分と印象が異なっています。トリミングの効果といえるでしょう。


2008/7/20追記

斉藤隆夫議員のいわゆる「反軍演説」やその他の演説・論説集に一通り目を通したところ、斉藤隆夫議員の戦争観がだいぶ見えてきました。反軍演説の後半にもそれは現れていますが、反戦思想とはまったく相反するものをもっていたようです。

国際競争には戦争が伴い、戦争には侵略が伴うが、侵略は決して邪悪にあらざるのみならず人類進歩の必要条件である。侵略しなけれは人類は進歩せず、世界 の文明も発達せない。若し之を疑う者あらば、過去数千年来世界に戦争起らず、侵略もなかったとするならは、今日世界はどうなって居るであろうか。」

1941.09「戦争の哲理

さすがに日本の敗色が濃厚になってきたころには少し変わってきているようにも感じましたが、斉藤の考えは「世界から戦争は絶対になくならない」「世界は徹頭徹尾弱肉強食の世界」という点で筋が通っています。あえて「反軍」といえるのは、「軍人の政治関与は絶対にダメ」ということくらいでした。

そういうわけで、斉藤議員の19402.2の国会演説を「反軍演説」と呼ぶのは、その印象を誤誘導するものであり、もし現代においてもこの演説を賛美するのなら、批判をおそれずに持論を展開する勇気、という程度でとどめる方がよろしいかと。

あと、斉藤議員は当時、国民からの支持が厚かったようですが、これについても「国民が戦争に反対していた」からと捉えると辻褄が合わないところがでてきそうです。

「国民の声を代弁してくれる議員」としての人気があったということならば、当時軍事的に勝利したも同然の大陸において、「いつになったら終わるのか」と言う厭戦感情(≠ 反戦感情)と同時に、「戦争(事変)の決着は既についたも同然なのに、賠償金も領土も取らないという政府の声明はおかしいじゃないか」と国民が考えていた可能性も看過することはできないでしょう。

そう考えれば翼賛選挙(1942)時にも当選できたのは、「国民の声を代弁してくれる議員」への期待であって、その国民の声とは「戦争を止めろ」ではなかったのかもしれません。翼賛選挙時の戦況を考えれば、むしろそう思えます。

ただ、翼賛選挙の時の斉藤への妨害は凄まじかった(ほとんど軟禁状態)ことは間違いないようです。

■続編エントリ(ぜひこちら↓もどうぞ )
斉藤隆夫議員「反軍演説」を読む-1
斉藤隆夫議員「反軍演説」を読む・・・の続きですが・・・


■参考書籍
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starsなぜ民衆は戦争を支持したのか?

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アジア主義を問いなおす (ちくま新書) 井上 寿一

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コメント

斉藤議員と米内光政内閣

このNHK番組は見た記憶があります。

このときの政府は米内光政内閣。同年1月に組閣したばかり。事変処理に関する斉藤議員と米内総理とのやりとりがどんな風に同書で扱われているのか興味深いところです。

ところで、手元にある当時の朝日新聞紙面(昭和15年2月3日)の大見出しを飾る文句は「齋藤氏質問中に失言/除名問題に迄発展か/陸軍各会派とも激昂」です。

「朝日新聞に見る日本の歩み」朝日新聞社 1974年 から。

■Dienさん

私は「その時歴史が動いた」は好きでよく見ているのですが、紹介した回は昨日ネットで初めてみました。
この番組は、自分が今まで知らなかった人物への新たな興味をかき立ててくれるのですが、逆に自分がある程度調べたことのある話が出てくると興ざめすることも確かですね。上の動画はまさに後者です。
あの時代をことさら暗いイメージで描いているのは、人物にスポットライトをあてるという番組構成上、バックステージが暗い方が良いということなのかも知れませんが。

>斉藤議員と米内総理とのやりとりがどんな風に同書で扱われているのか・・・

今回引用した本では、当時の政治局面の流れの中で「反軍演説」に言及しているだけです。この後私が書こうとしているのは演説の全文からみえてくる当時の国民感情と斉藤議員の戦争観についてです。
なお、米内首相の答弁については、近衛声明(第三次)の踏襲であって、説明責任を果たせていないように思えます。

ご紹介いただいた見出しにあるように、軍部は演説に怒りを表したようですが、演説の中身が「東亜新秩序が理想論であって現実的ではない」という斉藤議員の主張内容からすれば、それに軍部が怒ったと言うことから逆説的に「東亜新秩序」を真剣に考えていた者達が存在していたということ可能性も浮上するわけです。

長くなりそうになってきたので、この先については今後のエントリーで追々・・・

コメントするの遅くなりましたがブログ開設2年目に入られたようで、いままでご苦労様でした。検索ワードについてはこちらもだいぶ前に書いた「筑紫哲也、朴三寿」がいまだに毎月トップだったりしますよ(苦笑)

ところでエントリ内容と少し外れてしまうのですが、「日中戦争の目的は・・・東亜新秩序の形成にあった」というのはどうなんでしょうかね。日本政府の声明は盧溝橋事件勃発当初は目的を「自衛のため」、次に「暴戻支那政府を断乎膺懲するため」、で16ヶ月経って初めて「東亜新秩序建設のため」としているわけで、後付けの目的と思えるのですが・・・

動画の中で「目的があいまいだった日中戦争」と保坂正康氏が指摘しているように、自分も(あくまで自分の調べた範囲内での解釈ですが)同じように思うのですが・・・

ありがとうございます

■やっしゃんさん

だらだらと2年も書いてしまいましたが、いろいろ読んで頭の中を整理して考えて書くという作業を繰り返していると、常に自分の歴史認識の再点検と修正が余儀なくされます。しかし、それは必要なことだと思えるからこそ、飽きっぽい自分が続けられているというのはありますね・・・。

>検索ワードについては・・・

過去エントリーが上位なのは良いとしても、「鬼畜AV」「動画」で検索して来る人が最多というのはさすがに・・・苦笑。


>後付けの目的と思えるのですが・・・

「東亜新秩序」は紛れもない後付け理由です。その事実はゆるがないと思います。
しかし、なぜそういう後付け理由を発表することになったのかという経緯を詳しく見ていくと、戦争の自己正当化という側面と、当初見くびっていた中国ナショナリズムへの見直しの動きが政府にも軍部にさえも(一部ではありますが)存在したことも確かなのです。そして中国との共存共栄を主張する声も、軍の中にもでてきているのです。中国の主要地域をあらかた占領しても蒋介石は降伏しない、戦闘には勝っても戦争が終わらない・・・・ここで和平を構築するには譲歩が必要という主張が出てきて、その結果としての「東亜新秩序」という側面もあるでしょう。あるいは第一次近衛声明の「蒋介石を対手とせず」がもたらした結果への反省からくる路線修正と見ることも可能かと思います。

また「新秩序」という言葉は当時の国内政治でも、世界情勢でもさかんに言われていたことで、日本が突然に言い出したことでもありません。


目指していたのはイギリスのブロック経済、アメリカの自由経済、共産主義という異なる価値観が並立する世界秩序の中で、東亜においては自他共に認める先進国だった日本が中心となってアジアとして自活できる経済圏を確立するという理想主義です。
確かに後付け理由ではありますが、各種情勢から判断し路線修正を重ねてきた結果という一面もあると考えられます

さらにいえば、中国の租界返還や不平等条約の修正を日本は欧米に提案しています。そのため日本も租界を返還するとしています。
(当時植民地を保持したままの国が他国に侵略するなと干渉するとか、核兵器を保有したまま他の国に核を持つな、という姿勢とも違いますね)

この件で日本はイギリスと衝突し、反英傾向が強まりますが、日満支ブロックがアメリカなしでは成り立たないことにすでに気づいていた日本は、むしろ親米的態度をとっています。日本の親米路線は国連脱退後のすぐあとから見られます。アメリカも現地で亡くなった斉藤博駐米大使の遺骨を最新鋭の駆逐艦で横浜に送り届けるという親日的な姿勢を見せることさえありました。
その他の状況から見ても、東亜新秩序は必ずしも西洋駆逐を意味しる排外的アジア主義と言い切れるものでもなかったと考えられます。
一時は中国から西欧列強を駆逐するという勇ましいことを言ったこともありますが、このトーンも時間経過と共に変化していますし。


「目的があいまいだった」のは、「東亜新秩序」の政府の説明がわかりにくかったからにほかならないと思われます。今見ても武力行使をする一方で提携していこうというのは何とも理解しがたいですし。しかし仔細に見ていけばそれなりにまじめに検討されていたことも確かです。

また、当時の常識で言えば、国民の血税と生命をかけて戦った戦争なら、戦勝国は領地と賠償金を得られるはずというのがあったからでしょう。
それに対して「東亜新秩序声明」では、土地も賠償金も要求しない、(敵国でありながら)独立を尊重するというのであれば、何のために戦争しているのか、にわかには理解できないのも当然です。当時の国民も現代人にも・・・。

反軍演説について言えば、このアジア経済圏構想の理想主義が国民生活とどのように結びつくのかがわかりにくいから、国民を代表して斉藤議員は政府の説明責任を追及したということでしょう。支那事変はこれまでの戦争とは異なるまったく新しい戦争という説明もなされたようですが、そう簡単に理解できるものでもないでしょうし。

多大な犠牲と税金を使って何も得るものがないとはどういうことなのか・・・日露戦争後の日比谷焼打事件の再来を想像する人が少なくなかったことは想像に難くありません。

・・・エントリー一本文位の長文コメントになってしまいました。すみません。

反軍演説についてはやっしゃんさんがかつて取り上げたときにコメントしようと思っていたのですが、思っていたことをtukinohaさんが先に書かれましたので私は遠慮しました。
余談ですがtukinohaさんの歴史関係のエントリーは私のお気に入りです。大学で歴史専攻をされているだけあって、多角的な見方と大局観を持っていらっしゃると思います。
私もそういう歴史観を持てるようになりたいと思っています。

昭和15年2月3日付け「東京朝日新聞」(第二面)をスキャンしたファイルをアップしておきます。ご参考まで。なお、他の紙面や他紙がどう報じていたのかは資料無いためわかりません。

http://indonesia.travel.coocan.jp/temp/news_image.jpg
A4を600DPIで取り込んだもの。サイズが大きいのでご了承ください。

■Dienさん

ありがとうございます。
この演説がどのように報道されたか関心があったので助かります。
これは、「朝日新聞に見る日本の歩み」からですか?

>サイズが大きいのでご了承ください。

むしろこのくらいの大きさでないと読みづらいですし、ちょうど良いと思います。ルビまで判読できますし。

興味深かったのは、国会の記事と爆撃の記事の間に「家族手当月額2円、近く閣議で決定」という記事があることです。
引用した本にあるのですが、戦争期間中を通して、日本はそれまでの格差社会(現代とは比較にならないほどの)が徐々に平準化されていったということがあるようなのです。
資本家vs労働者、地主vs小作農という構図の中で、資本家、地主への制約が強まることで、労働者や小作農の地位向上(あるいは下方平準化)がすすんだということのようです。それが、国民が戦争を支持した理由の一つと考えられるのだとか。

「ぜいたくは敵だ」という標語は有名ですが、これは有産者の贅沢を戒めることのようで、もともと贅沢に縁のない階層の国民にはあまり関係のない話。むしろ歓迎されたのかも知れませんし。「白米禁止令」が出されたのも、無産階級からの要求という側面があったようです。

「家族手当支給」の記事も、戦時下としては意外な感じもしますが、無産階級の社会保障を進め、政治への不満を解消する効果を狙ったものかも知れませんね。

>これは、「朝日新聞に見る日本の歩み」からですか?

ええ、そうです。なお、この書籍は全紙面を収録しているものではなく、かなり端折っているものです。昭和15年2月3日だと、収録されているのはこの第2面のみ。また、これに続く2月4日、2月5日、2月6日分については収録されていません。というわけで、編集者が「どういう基準で収録紙面を選択したのか」について、留意しておく必要があるとは思います。

コメント内でご指摘のあった「家族手当」についての記事については、気がついてませんでした。ありがとうございます。福田和也の著作だったと思うのですが、『第一次大戦期にイギリスでは社会保障関係の政策が実施され、‘福祉国家化’が図られた』『これは総力戦となった第一次大戦を戦い抜く上で、国民の生活を保障する必要があった』云々という記述を見た記憶があります。(該当書籍は「第二次大戦とは何だったのか?」筑摩書房 だったはず) 日本についても「総動員」体制を維持するために、似たような政策を採っていたのだろうと推測します。

あと、アップロードした紙面を見直してみて、左下に面白いコラムを見つけました。

・東人西人(水牛のイラスト?が目印)

上段に「統制経済についての話題」に話題があり、当たり前のことかもしれませんが、当時も「統制経済」という言葉を使っていたのだと確認できた。。。。

そして下段では、次の一説。(「 」内引用」

「▲日本の議会が戦時下国民生活の真剣なる検討よりも抽象的な政治論に憂身をやつしているとき太平洋の向う米国では対日圧迫論が議会や新聞紙に反乱している、上院外交委員長ピットマンの如き『米国の対日禁輸案は全世界に歓迎されているのに日本だけ侮辱されたと思うのは諒解に苦しむ』など論理を無視した毒舌を弄し▲昨日日米通商条約廃棄案を提出したヴェンデンバーグ氏も多少の余裕は残しているが禁輸案実施の可能性ありと言っている、道義外交の有田外相果たして道義のみを以てこのヤンキーの横車を説破し得るや否や、外交の無能を責める政党も責められる政府もわが荊棘の外交進路の開拓に潜思直視せよ」

当時の米国からすると、「日本はならず者国家」であり、それへの「制裁は全世界が是認」するものという論理が登場しています。あと「ヤンキー」は蔑称じゃないんでしょうか? もう日米間は戦争状態だった?

■Dienさん

>「どういう基準で収録紙面を選択したのか」について、留意しておく必要・・・

そうですね。縮刷版が手元にあれば便利なのですが高いし、かといって図書館に行く暇は無し・・・

「東人西人」のコラムは興味深いですね。
『「国民の生活必需品についても同様値上げしない方針だ」と断言し、経済統制に関しても大に民間の声を尊重しこれを取り入れてやる』

と、民間が経済統制を望んでいたことがうかがわれます。

戦前の暗いイメージを語る「国家総動員法」にしても、そもそも当時日本社会の下層にいた労働者や農民が支持した無産政党が、反発を感じていた資本家を統制し富の再分配を狙ったいわば「社会主義化」の一歩のようなもので、国家権力が国民を抑圧する構図として「国家総動員法」を語るのは適切ではない気がしますし。

>もう日米間は戦争状態だった?

この新聞の昭和15(1940)頃は、ある意味そう言えそうですね。
蒋介石による宣伝工作も効果を上げていた頃でしょうか?アメリカのメディアにおいて、日本からの輸入品が米国人から職を奪うというプロパガンダ記事(データから見れば根拠無し)が増えていた頃だったような・・・(ちょっとうろ覚えです)

>米国からすると、「日本はならず者国家」・・・

明治の元勲がいなくなってからの日本は、国家最高責任者不在、国家の意思決定者も不在で、多重国家のような有様でしたから、言っていることとやっていることが違っていれば、信用できない国として見られてもやむを得なかったかも知れませんね。
「領土的野心無し」「賠償金とらず」「中国における第三国の権益制限を提案することはない」と宣言しても信用されなかったかも知れません。
ましてや、そう宣言しながら戦争した事例は世界のどこにも無かったわけですし。

かといって、米国が絶対正義というわけでもなく、そのあたりは今の米国とかわらない傲りもあったように感じました(「ハル回顧録」などを読んで)

ただ、日本では(一部論者を除いて)対米戦はギリギリまで避けようとしていたのに対し、この時期からは米国側では対日戦準備の動きがあったようにも思えます・・・これはもっともっと勉強しないと何とも言えませんが・・・。

初めましてのtukinohaです。呼ばれてないのに出てきました。

反軍演説についてですが、大きな政治問題となった背景に、当時の政党内部で軍部への接近の是非を巡って激しい対立が起こっていたことを指摘しておきたいと思います。
昭和10年ごろから政友会・民政党の一部に、親軍的な新政党を作ろうという動きが現れ、13年ごろからそれが活発化してきます。最終的には大政翼賛会という形で落ち着くわけですが、「反軍演説」の起こった15年はちょうどその過渡期、各政党内部に親軍派が成立する時期にあたります。政友会では中島知久平らの親軍的革新派と鳩山一郎らの正統派が、斉藤の所属していた民政党では永井柳太郎らの親軍派と反永井派とが対立していました。
そのようなときに「反軍演説」を巡って斉藤隆夫の処分問題が持ち上がります。各党の親軍派議員を中心に、斉藤を除名にするべきだ、という議論が盛んになるのですが、この過程で民政党は永井派と反永井派が対立を深め、政友会正統派も従来の鳩山派と親軍的新党運動を進めようとする久原房之助派とに分裂、政党の力を決定的に弱めることになりました。

議論が紛糾したことには上記のような理由があるわけですが、それによって、日本的な一国一党体制である大政翼賛会を準備するという意味で「反軍演説」には重要な歴史的意義があったように思われます。

はじめまして

■tukinohaさん

コメントありがとうございます。

>呼ばれてないのに出てきました。

このエントリーのコメント欄の上の方でお呼びしていたような・・・(笑)
今までご挨拶もせずにすみませんでした。tukinohaさんのblogへリンクも勝手ながら貼らせていただいています(お気に入り&相互リンク(歴史系)の中)
tukinohaさんの「歴史観」の話は強く強く共感しましたし、初詣の始まりの話もおもしろかったです。さすが歴史を専攻されている方だなぁと。

今回引用した井上寿一氏の本の中にも、いただいたコメントと同様、この演説を巡る議論が政党の分裂をすすめることになったというようなことが書かれていましたが、tukinohaさんのコメントの方が詳しくて参考になりました。ありがとうございました。

私の書くことで、誤認識などがありましたら遠慮無くツッコんでください(笑)。特に政治史については手をつけ始めたばかりですので・・・。
今後ともよろしくおねがいします。

09年9月3日、日本経済新聞夕刊コラム「あすへの話題」の中で、北岡伸一東大教授が、斎藤隆夫の例の演説に触れ、「近代日本最高の演説家」と手放しで、賞賛しています。私は、tukinohaさんが指摘されており、常識でもある演説の「当時の背景」を認識していないかのような北岡氏の言説にいささか驚きました。しかも、そのあとにも「軍に迎合しないで除名に反対した議員」として、鳩山一郎の名をあげています。鳩山も、“政局のために”時の内閣の統帥権侵犯を主張し、軍の独走を許す結果を招いた政治家である事実を認識していないのでは?
今まで、北岡教授はバランスのとれた見識をもった学者であると思ってきたので、大いに失望しました。
ついでながら、朝日新聞の戦前の収縮版は、すでに絶版となっており、図書館などで調べるしか方法はないでしょう。

反軍演説

当該演説の公式速記録の「問題部分」は削除されているのではないでしょうか?ですから、この演説の内容を議論する前提になるのは、先ず、当日の演説の内容がいかなるものであったかを、正確に調べるところから始まります。

この演説の骨子は、文民統制を離れている軍部のあり方に対する批判なのではないでしょうか?戦後的な反戦を期待して、それが外れると、斉藤を帝国主義者であるかのように判断しては、即断に堕ちるかもしれません。

貴重なエントリー
コメント欄も含め、とても参考になりました。

「反軍演説」の中ほどで
汪兆銘の(南京)新政府とこれから交渉していくとのことだが
こんな実力(国内統治、国際義務の履行)もない政府に入れ込んで意味あるのか?
実力とは即ち兵力、軍事力だ!
孫文が志を得ずして終に最後を遂げたのは「つまり彼が武人にあらず、武力を有しなかったからであります」って言い切っちゃってますもんね。

これだけでも「反軍演説」というネーミングはいかにも相応しくないと私も同感するしだいであります。

全文を読見んで思ったのは
この人、典型的なマキャベリストだよね?
ってことと
ほぼ名指しで近衛文麿をボロカスに叩いててワロタw
てことと、あと
米内光政の「~期待するものであります。」的な答弁に
ズッコけました。


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