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[書評]吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」   

51TJVZ0AGVL10回にわたって転載を続けてきた55年前の外務省極秘文書「日本外交の過誤」が掲載されている『吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』について、最後に書評を書いておこうと思います。

まず、本のタイトルについて。
「吉田茂の自問」とあるので、吉田茂について書かれたものと思わされがちですが、この本に戦前の日本外交についての吉田茂の意見は一切登場しません。



吉田茂が出てくるのは冒頭部分のみ、この外務省文書が作成されるこ契機となった、外務省課長に対する指示のシーンの述懐3ページのみです。

ですので、吉田茂に関心のある人がタイトルを見てこの本を手にすると肩すかしを食らうでしょうし、逆に戦前の日本外交について、肝腎の外務省はどのように考え評価しているかに関心がある人には気づかれにくいタイトルだと思います。

中身は著者の元フランス大使・小倉和夫氏(現、青山学院大学教授、国際交流基金理事長)による、外務省文書「日本外交の過誤」についての解説と所見が中心です。

「日本外交の過誤」(以下、「調書」と記します)についてはこれまで転載してきましたが、以前にも書いたとおり、これが絶対的に正しいというわけではなく、あくまでもひとつの見解に過ぎないと考えられます。そういう意味では、小倉和夫氏の所見や考察も、調書と同じ箇所もあれば異なっている箇所もあり、また調書が触れていない事実への指摘などがなされていて、参考になります。

また、現代の外交政策についても戦前と比較しながら言及されている箇所もあります。これはこれでいろいろ考えさせられる部分があり、著者の意見に同意できるかどうかは別としても、歴史を鑑として今後を考えていくことを実践している姿勢は評価されるべきだと感じました。


さらにこの本が興味深いのは、『「日本外交の過誤」に関連する諸先輩の談話及び省員の批評』という文書も掲載されていることです。

これは戦前の外交政策を実践した当事者、言い替えればこの調書によって批評された側に、調書を読んでもらった上で、さらに批評した文書が掲載されていることです。

掲載されているのは、

有田八郎(1939~平沼内閣外相、1940~米内内閣外相)
重光葵(1943~東条内閣外相、1944~小磯内閣外相、etc)

の二人の外務大臣経験者の他、堀田正昭、佐藤尚武、林久次郎、芳沢謙吉らの大使経験者です。

調書の内容についても異論があったり、おおむね賛成という意見があったりと、外交の当事者しか知り得ないような情報まで含めて(外務省内部文書だからでしょうが)かなり率直な意見がが書かれています。

佐藤尚武大使などは

有田などのような中枢の地位を長く占めていたような人達には、生存中にしっかり泥を吐かせておいたがよいと思う。

と言っていたりするくらいです。その有田八郎元外相はといえば、外交の拙かった点についても自分なりに
指摘しつつ当時の状況をふり返っています。

下記に有田八郎の談話を抜粋して引用しておきますが、このような話がいろいろ出てきます。
これら戦前の外交当事者の話に目を通せるのも、この本をお薦め出来る理由です。



日露(戦争)の頃は局面が小さかった。事件は種々あったが、内容も簡単であれば世界的な関連も少なかった。陸海軍もそれほど口を出さなかった。第一次大戦後になって大分様子が変ってきた。

その以前からも東洋人排斥ということが行われ、これが日本に強く影響した。
又(第一次)大戦中の二十一ヵ条問題は、支那に非常に影響し、排日、排日貨を引き起こした。それで支那を避けてインドや南洋の方へ進出していく外なくなった。ところが、又、各国の経済関係が難しくなって来て、英国の方ではオタワ協定というようなものが出来たりした。

(引用者注:オタワ協定=いわゆるブロック経済

こうして日本人も日本の物も各方面から排斥された。又日本人は九カ国条約で縛られたような感じを持って来た。こういうことが日本の行動に影響を及ぼしたのである。

満鉄の平行線問題にしてもいくらこちらから抗議しても効かなかった。
陸軍の阿部事務局長、松井参謀本部第二部長(後に建川に替る)などと殆ど毎週のように外務省で評議を重ねてもいい案が出てこない。その間張作霖の鉄道の方は段々よくなって来た。こちらの目的を達成するためには結局実力を持って奉天で向こうの線をたち切る外はないということだった。
(もっとも、仙石さんの如きは、平行線など気にする必要はないといっていた。)
建川は「幣原大臣ではしようがないなあ」というようなこともいっていた。

当時の支那はいわゆる革命外交であって日本と協調していく空気ではなかった。田中(義一)総理兼外務大臣は武断政策をとったと思われているが自分は必ずしもそうは思わない。
彼は支那の本部の方は蒋介石にやらせ、満洲の方は張作霖にやらせる。自分はこれを両手に持って操縦していくというような考え方であった。

だから張作霖が爆殺されたのは掌中の珠の一つをとられたようなものだった。若槻内閣になってから、満鉄包囲政策を止めさせるのに満鉄を使ったらどうかということでそのために木村鋭一を満鉄に送り込んだりしたが、結局ものにならなかった。
満洲は手のつけられないような状況だったわけである。支那の排日を止めさせる政策が出来ればよかったが、手が届かなかったわけだ。

(略)
外交が旨く行かなかったことについては、度々手が替わったことにも原因がある。そのため切れ切れの外交になり、あとから見ると思いつきの外交になってしまった。
余り適切な例ではないかも知れないが、幣原さんの対支政策のようなものも少し続いていたらよかった。

(略)

幣原さんは、支那の関税自主権回復について、彼には似合わない話だが、英米を出し抜いて賛成してしまった。支那と結んでいかなければならないとの考え方からであった。英米はこれに引きずられた。そのうち戦乱でお流れになったがこのときの日支提携の気風が続けられればよかった。

(P.243~)



 

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」 小倉 和夫

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