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外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(8)終戦外交   

今回転載するのは、戦争の終わらせ方についての反省の部分です。

「太平洋戦争はもっと早く終わらせることはできなかったのか」という問いかけは、しばしば目にするところです。「緒戦の思わぬ大勝に調子に乗ってしまった、あの時に講和に持って行ければ・・・」という話も見かけますが、戦争も外交も相手のあること、こちらの都合の良い状態(イコール、相手の不利な状態)で終わらせることなど至難の業と言えそうです。

ましてや、あの戦争では、特に。


太平洋戦争開始が決定された当初から、この戦争において日本には軍事的に「対米屈敵手段なし」と、はっきり認められていた。かといって、外交的方法による終戦についても、別に目算があったわけでもない。

もっとも、話合いによる講和と言うことになれば、相手方もあることであるから、こちらの思い通りにはならない。

現に、米英側は、一九四三年(昭和十八年)一月、ロウズヴェルト大統領とチャーチル首相のカサブランカ会談の際いわゆる無条件降伏の方式を天下に明かにしている。米英側としても、こういう立場をとったことが果たして有利であったかどうかについては、戦後深刻な批判が行われており、確かにその当否は疑問である。

しかし、両国の当局者も国民も、当時実際にそういう気構えであったことは、一つの事実である。

日独伊というような国は、やはりワンス・アンド・フォア・オールに片付けてしまわなければ、将来に禍根を残すというような気持ちであったろう。従って、ネゴシエイテッド・ピースの余地は、初めからなかったかも知れない。

現に、両国の当局者は、欧州戦争の当初以来、ドイツの反ナチ地下組織の連中からの和平申出を蹴っており、ヘスの英国乗り込みも無駄に終わっている。戦争初期におけるヒットラーの再三の公然たる和平提案も無視された。

しかし、だからといって、日本政府が戦争のある時期に公式に和平を申し出たとしたら、これも同様拒否されたに違いないといい切ることはできない。

日本が緒戦で戦果を挙げている間にこれをやれば、日本としては大いに有利であったであろうが、先方も不利を見越しておそらく応じなかったであろう。

戦局は、昭和十七年六月のミッドウェイ敗戦を転機として下り坂になったが、その後、国内的見地から終戦を提唱し得べき機会としては、イタリーの降伏(昭和十八年九月)、サイパン陥落(十九年七月)、比島敗戦(二十年一月)、米軍の沖縄上陸(同五月)、ドイツ降伏(同)、沖縄失陥(同六月)、ポツダム宣言発表(七月二十六日)の時等があげられよう。

しかし、実際問題として、二十年の三月頃までは、そういうことは、国内的に至難であったであろう。

ドイツの降伏は、終戦のための機会として、もっと有利に利用できたのではなかろうか。

このころ、戦争の継続のためには明かに不利な、従って終戦の方向を推進するのに有利な条件が集中的に出て来ていた。

四月五日には、ソ連は中立条約の破棄を通告してきていた。
五月に入るや、沖縄の敗色も濃厚となっており、海軍もこの作戦においてほとんど壊滅にひとしい状態となり、又本土に対する本格的な空襲もいよいよ始まっていた。

そこにもってきて、かろうじて残っていた唯一の盟邦も敵の軍門に降ったわけである。

当時、外務当局は、ソ連による中立条約の破棄の重大さを自覚もせず、又、かりに自覚していたにしても、これを終戦をもたらす上に国内的に利用しようとはしなかった。

又ドイツ降伏に際しては、少なくとも表面上は、三国条約が当然失効したものと認める旨の発表をしただけであった。

この時、政府当局者、特に外務当局が、八月の終戦の際位の意気込みで、強く終戦を主張したら、目的を達することができたかも知れない。少なくとも、ポツダム宣言が発出された時、これを受諾するだけの精神的な準備はできたのではないかと思われる。

中立条約の破棄通告の際、佐藤大使から条約期限満了までの期間におけるソ連の態度を質問したのに対し、モロトフは、最初、「ソ連の態度は、今後は、、事実上中立条約締結以前の状態にもどる次第である」と答え、佐藤大使から、同条約はなお一年間有効のはずではないかと反問したのに対して、モロトフは「時期満了の時にその状態にもどる次第である」といいなおして、お茶を濁している。

これだけでも、ソ連が日本にとって十分警戒を要する相手であることは、読み取れたはずだといえよう。
少なくとも、ソ連のような国に終戦のあっせんを依頼することは、外交的にはまったく理解し得ないことであった。

六月から広田、マリク大使会談が強羅で始められたが、ソ連側に日本の申出をまじめに取り上げる気持のなかったことは、初めから明瞭であった。

わが方から、交換条件として、日ソ両国今後の関係を律する取極の前文案と満洲の中立化、露領漁業権の解消その他ソ連の希望する案件に関する討議の用意のある旨を書きもので申入れ、大至急回答方を要請したのに対し、マリク大使は、広田氏の申出は伝書使便で政府へ託送したと答えるのみであった。モスコウにおける佐藤大使に対するソ連側の態度も同じ調子であった。

一体、このソ連に仲介させようとしたことについては、軍側に、ソ連を間に立てれば幾分でも米英に対する牽制ともなろうという見当違いの考え方があり、、外務当局としても、軍を終戦に引っ張っていくためには、この軍側の気持に一応乗ってソ連に話をもちかけ、いよいよこの最後の頼みの綱もだめだということを納得させる必要があったのだという説明が行われている。

又、実際にそうとしか思われないのであるが、それにしても内政上の理由のために、あえてとられた外交上の措置のためにこうむった損失は、高いものについた。

当てにならないソ連のあっせんを当てにしていたばかりに、数十の都市を焼かれ、原子爆弾に見舞われ、ヤルタの密約(もちろん、当時、そんなものがあることは分かっていなかったが)を反故にしそこなったのである。


戦争は、始めるのは一時の決断でも、終わらせるのはいかに難しいかという例証になるでしょう。
現代においてもなお各地で続く紛争は出口の見えないものばかりです。

なにより、相手があることだから、「もう止めよう」といっても相手が「いや、まだダメだ」と言えば、戦争は終われないのです。
戦争を仕掛けた方も、仕掛けられた方も、占領地や戦況が双方とも妥協できるレベルになるか、相手が音を上げなければ終われないのですね。
だからこそ、国同士の対立が戦争に至るのは、なんとしても避けなければならないと考えます。


ソ連を仲介役として太平洋戦争を終わらせようとする外交は、軍の「ソ連を間に立てれば米英に対し牽制になる」という意見を納得させるためとのことですが、その結果としては、「内政上の理由のために、あえてとられた外交上の措置のためにこうむった損失は、高いものについた 」・・・。

このあたり、二重政府に等しい状態だった戦前の日本の政治体制の陥穽が顕著に表れた事例の一つだと思えます。

軍としては日ソ中立条約を本気で当てにしていたのかどうか、このあたりはあまりよく調べていないので分かりませんが、『「日本外交の過誤」-(5) 日ソ中立条約締結 』の中にもあったとおり、欧州戦線にてすでにポーランド、フィンランド等との不侵略条約を破っていた実績があったのですから、もし仮に本気で当てにしていたのなら、それこそおめでたいといわざるをえないのかも知れません・・・。


次回は、『外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(9)結論』です。



■参考書籍
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」 小倉 和夫

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