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外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(6)仏印進駐、蘭印交渉   

日本と米英の対立を決定づけたのは、前々回の日独伊三国同盟ですが、この仏印進駐、とくに南部仏印進駐はアメリカの日本への石油輸出禁止措置を招きました。

アメリカがそこまでするとは思わなかったと回顧する声もあるようですが、日本の行動が他国にどのように映るかという視点が欠けていたということなのでしょうか・・・。


当時の日本の進出の方向は、大体南方にとられていた。独ソ開戦の際、一時、軍の一部で北進論がおこったが、結局、南部仏印進駐と言うことでおさまった。

この南進の第一歩は、フランス軍のドイツに対する降伏(昭和十五年六月十七日)後行われた交渉による北部仏印進駐(九月二十三日)であった。

これを主張した者が目的として挙げたのは、支那事変の解決を促進するというにあったが、実際には、支那事変の解決にほとんど役立ってはいない。

結果においては、むしろその後における武力南進の礎石となった。米国は、このことがあった直後(九月二十六日)、西半球諸国及び英国以外に対する屑鉄及び鉄鋼の輸出を禁止した。

蘭印の本国たるオランダも、フランス降伏の少し前、ドイツに占領せられた。こういう可能性も、前から予想されていたので、ドイツ軍のオランダ侵入前、有田外相は、、「欧州戦争の激化に伴い蘭印の現状に何等かの変更を来すが如き事態の発生については深甚なる関心を有するものである」との趣旨の談話を発表し、さらに、五月十日ドイツ軍が、オランダ、ベルギーに侵入するや、翌十一日、オランダ、ドイツ、英国、フランスの各国政府に対し、蘭印の現状維持に関するわが方の希望を強く申し入れ、当時中立国であった米国、イタリーにも右の次第を参考として通報した。

この談話及び申し入れは、ドイツ又は英仏の蘭印支配ないし占領を防止する機宜の措置であったと思われる。又、それは、わが国も蘭印の現状維持を尊重する建前のものであったから、国内の過激な南進論をおさえる上から、対内的なねらいもよかった。

しかし、結局、南進論者はこれを不満とするに至り、武力は行使しないまでも、蘭印における我が国の経済的、従って又政治的な優越地位を確立すべきであると主張した。

ここにおいて、同年九月小林商工大臣を特使として派遣して、そのための交渉に当たらしめ、ついで十二月には芳沢代表を派遣してこれにかわらしめた。

かくて交渉は前後九ヶ月にわたったが、買油交渉以外は妥結を見ず、翌十六年六月十七日、日本側から交渉の打切りと代表団の引揚げを通告するということで幕を閉じた。

この交渉において、蘭印側は、予想以上に強硬であった。それは、蘭印当局の根がロンドンに亡命していたオランダ政府にあったからである。

日独伊三国条約の下で日本から南方戦略物資がドイツ向け再輸出されるような状況では、日本の要求を易々ときき入れるはずはなかった。

この蘭印交渉打切り直後(六月二十五一)に、仏印との共同防衛協定締結と、南部仏印進駐の議が、大本営政府連絡会議で決定されている。

この際には、フランスの委任統治領たるシリアがイギリス軍及びドゴール軍の占領するところとなったから(六月八日)、仏印もほっておけないということが軍部によってしきりにいわれた。

こうして、昭和十六年七月二十二日、仏印の共同防衛に関する日仏の話合が妥結し、二十九日からわが軍の南部仏印進駐が行われた

これは、米英の防衛上から見てヴァイタルな一線を越えたことになり、米英は、日本に対して資金を凍結し、重要物資の輸出禁止を強化し、蘭印は、金融協定及び石油協定を停止する等米英にならった。

又、当時継続中であった日米交渉の前途に一大暗影を投じたことは、後述の通りであり、従って、太平洋戦争の誘因ともなったわけである。

松岡外相も、この南部仏印進駐については、これを行えば米国との戦争は避けえられなくなると警告し、消極的抵抗を試みている。

今日からすれば、戦争を前提としない限り、南方に平和的に経済的、政治的進出をとげる機会は、当時多分にあったと思われる。

仏印とは、経済交渉が成立していたし、タイ仏印国境紛争調停にも成功していた。蘭印交渉も、できるだけのところで話合いをつければよかった。

ドイツの欧州大陸における優勢を利用して南方へ無理な進出をしようとしたばかりに、かえってのど元をしめつけられるようなことになり、あげくの果ては、元も子もなくするような戦争に追い込まれた。

これも、ひっきょう、大東亜共栄圏の夢におぼれて、米(当時は参戦はしていなかったが)、英、蘭等の戦意、底力を過小評価し、情勢判断を根本的に誤ったがためであるといえよう。



■補足・私見

蘭印との交渉は石油などの資源確保を狙ったものでしたが、転載した調書の中にもあるとおり、交渉は打ち切りとなりました。結局、交渉相手のオランダと戦争中のドイツの同盟国である日本に、戦略物資でもある石油をl快く供給するとは思えませんが、著者の小倉一夫氏は、さらに別の問題を指摘しています。

さらに一ついっそう深刻な溝が、日蘭間に存在した。

領土保全の問題である。日本は領土保全の約束をしようとした。しかし、それは西欧の植民地支配を引き続き容認することを意味していた。

ところが、一九四〇年八月、日蘭交渉の最中に、小磯大将は、記者会見の席上、「蘭印は大アジア経済圏に入るべきだ」と云い、「虐げられた東洋民族を救済してやるのは日本の宿命だ」とのべ、また松岡外相も、一九四一年一月、議会における演説において、日本は蘭印を大東亜共栄圏の中に含め、指導権を発揮するとの趣旨をのべているのである。

このように、一方で西欧の植民地支配を否定しながら、他方でその同じ西欧諸国に領土保全を約束しようとすることはあい矛盾していること、明らかである

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』P.165

日本は満洲事変の時、すでに、言っていることとやることが矛盾する国として、国際的な信用を失ってしまっています。
それは、明治憲法下で政治と軍事が別個のものとして規定され、しかもそれを統轄するものは天皇しかありえないが、その天皇は立憲君主制として、政治に口は出せないという、責任者不在の致命的な国家であったがためでもあるのですが・・・。


また、仏印進駐についての日本の認識の甘さについては次のように指摘しています。

北部仏印進駐に関する日仏交渉の過程を通じて驚くべきことは、日本の南進に対するアメリカの強い危惧と警戒心や敵意を、日本の外交当局が当然それを知りながらも、やや実態よりも軽く考えていた節が見られることである。
とりわけ、米側への説明や説得といった努力をほとんど行っていないことが目につく。
(略)
こうした態度は、全て、日本の南進について米国は反対するけれども、それがゆえに日本と米国との全面対決には至るまいとする甘い読みが、、外務省の一部も含め相当数の人々の心にあったからである。

現に、北部仏印への全面的進駐当時の外相、豊田海将は、進駐の結果、米英欄がこれほど全面的な対日経済措置にでてくるとは予想しなかったと外務省関係者に後日述懐したと云う。

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』P.168


このような甘くちぐはぐな認識と、つぎはぎの外交を重ねた結果が、日本自身をどうにも身動きできない状況へと追い込んでいくのですが・・・それでも日米交渉に期待をつないではいたようです・・・。

次回は、日米開戦直前の『外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(7)日米交渉』です。


■参考書籍
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」 小倉 和夫

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