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外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(5) 日ソ中立条約締結   

最近転載をつづけている外務省文書「日本外交の過誤」は、前提知識がないと、この調書が何を言っているのか理解することが難しいかと思います。
そのせいか、最近のエントリーはごくわずかの方しか読まれていないようです。
あるいは、日本の戦争は軍のせいと思いこんでいて、外交はあまり関係ないと思っている人もいるのかも知れませんがw

一通り、この転載が終わったら、また簡単なエントリーを書こうと思っています。

今回は「日ソ中立条約」の部分を転載します。



松岡外相が、ロウズヴェルト大統領と同じように、前述のような彼独自のグランド・デザインを持っていた。

双方とも、野心的な性格から構想の大きいことに自負を感じていたこと、ソ連抱込みをその一つの重要な支柱としていたこと、客観情勢のいかんはお構いなしにその偉大なる構想の実現を追求したこと、そして、この現実無視から結局大木は破綻を来したことに共通したところがある。

しかし、ロウズヴェルト大統領の方は、戦争に勝つことが何ものにも優先する第一義的な目的であり、そして、この目的を達成するためには、ソ連の協力が必要であるという前提、(軍当局の意見がそうだったのだから、これを採用したことについて大統領を責めるわけには行かないだろう)に立ってのことであるから、まだしも、いわゆるカルキュレイテッド・リスクとして合理性があったといわなければならない。

ところで、松岡外相は、昭和十六年三月渡欧の際、行きにも帰りにも、モロトフに対して、北樺太の買収と不侵略条約の締結を強く提案したが、モロトフはこれを拒否した。

しかるに、松岡外相が別れの挨拶のためスターリンに会見した四月十二日に、スターリンの発意に基づいて中立条約交渉は急速に進展し、翌十三日に同条約は成立した。

その際、北樺太利権問題は、松岡外相が数ヶ月以内に解消すべく努力すべき旨の書簡を発することで一応解決した。

(北樺太の方は、松岡外相の当初の考えと逆になっている。なお、この問題は、三年後の昭和十九年三月、北樺太の石油石炭利権をすべてソ連に返還することによって落着した。独ソ戦況がソ連に有利に推移するにつれて、ソ連が松岡書簡を中立条約の条件として主張する気配を示してきたためである)

松岡外相は、これに先立つドイツ訪問の際、すでにドイツの対ソ攻撃企図をほぼ承知していた。しかし、彼は、これを止めさせることに最後まで望みをかけ、規定方針通り、中立条約を締結した。

この条約の締結によって、彼が近く開始するつもりであった対米交渉を有利にしようという腹だったことは、前にも述べた。(モスコウ滞在中に、スタインハート米大使に会ったりしている。)

しかるに、北樺太の利権の解消をコミットしてまで作られたこの条約は、軍部の対米態度を硬化せしめ、従って、結局、むしろ日米交渉の成立を困難にした位のものであった。

日米交渉が成立しなかったことから、そういえるというわけではない。その後間もなく、独ソが開戦し、松岡外相の日独ソ四国協商の夢もついえていたわけであるから、この四国協商の一支柱としての意味をもたない日ソ中立条約の存在が、米国にとって対日関係上何等の重圧でありうるはずがなかった。

又、中立条約の本来の目的についてみても、この条約の存在がソ連の対日宣戦をいくらかでも控えさせ、遅らせたとも考えることはできない。

ソ連は、すでに欧州戦争勃発に際して、ポーランド、フィンランド等との不侵略条約を破っていた。対日宣戦も中立条約の有効期間中に行った。

ドイツを片付けて余力を極東に振り向けられるようになり、又、日本が降伏の余儀なきことが明らかになるという最も都合のよいときまで待っただけの話である。


他方、この条約の締結は、ソ連の方には、どんな利益をもたらしたか。

まず第一に、当時予想せられ、又現に行われたドイツの対ソ開戦に際して、後顧の憂いを絶ちえた効果は、絶大なものであったはずである。

第二に、日本を米国の方に立ち向かわせるという政治的効果も、ソ連としてみれば、第一の効果とほとんど同様に大きいものであったであろう。

一体、ノモンハン事件以来の日ソ関係においては、外交のイニシアティブは、常にソ連の手中にあったといえる。

昭和十四年九月十五日、ノモンハンの停戦協定が成立するや二昼夜を出でずして、ソ連軍はポーランドへの進撃を開始した。欧州戦争勃発後、日本側は、中立条約ないし不侵略条約締結の提案を何度も繰り返しているが、ソ連側は、北樺太利権の解消を要求して、容易に条約の締結に応じなかった。いよいよそれをソ連の方で必要という景品まで付けさせることに成功した。


このように、日本が対ソ交渉上、いつも劣位に立たされた根本の原因は、日本の米英との関係が悪化の一途をたどっていたことにあったと思われる。ソ連にしてやられるのは、米英と対立関係に入った日本の宿命であったといえよう。

それにしても、これほどまで乗ぜられたということにはソ連という国家に対する根本の認識の甘さもあずかっている。

これは、ソ連による中立条約破棄通告の受け取り方とそれ以後における日本の対ソ折衝にもうかがわれる。

さらに、あまりに野心的、権謀術数的な大構想の罪もあげられるべきであろう。

英米陣営に対抗する日独伊ソの連携という構想が、土台、現実性のないものであったが、その実現に都合の悪いことには、すべて目をつぶるようなことになった。

いかに奇想天外な大経綸といえども、現実に立脚しない限り、ひっきょう砂上の楼閣にすぎない。

■補足・私見

日米開戦前の時期の日本の外交は、ことごとく裏目に出ていると感じられますが、この日ソ中立条約も、その一つといえそうです。

そもそも日ソ中立条約とは何を目的としたものだったのか・・・。

日ソ中立条約の目的

一義的には、松岡外交の名の下にすすめようとしていた、対米交渉を有利に運ぶための布石であった。加えて、中国の蒋介石に対する牽制もあった。

抗日救国戦線の旗印をかかげる共産党と蒋介石との合作は、一九三七年以来、いろいろな形で行われ、同じ年には、そうした動きの反映として、国民党政権とソ連との間に中ソ不可侵条約が結ばれており、ソ連は中国の抗日運動にとって友邦となりつつあった。

従って、日ソ中立条約の締結は、中国に対するソ連の公然たる軍事的協力に歯止めをかけるものであるだけに、中国への和平工作の圧力として有効な手だてと考えられたのであった。

こうした日本の意図は、早くからソ連に見抜かれていた。

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』 P.147


この調書の趣旨は、結局、日本がソ連にしてやられた、認識が甘かったという評価になっています。

前回の日独伊三国同盟もそうですが、この時期の外交の流れは松岡洋右外相の意志(とその推進者)によるものが大きいというのはよく指摘されているところですが、では、なぜこのような外交方針となったのか・・・


松岡には客観情勢の意味の把握よりも、自分の「偉大なる構想」の実現をあくまで追求するという情熱があり、それに流されたからではなかったか。
(略)
大きな構想の持主は、自らの作った構想が幻想になっても、それを追い求めたということなのであろうか。
(略)
「作業ペーパー」を読むと、これらすべての裏にあったのは、外相としての野心と虚栄心であったとの趣旨が強くにじみ出ている。

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』P.150~


この時松岡洋右らが作った流れは結局裏目に出てしまい、日米開戦の時に彼は、

「三国同盟は僕一生の不覚であった」
「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」

と涙した、と伝えられています。


松岡洋右がなぜこのような外交方針をとったのかについては、彼の若い頃のアメリカでの留学経験がもとになっているのかも知れません。特に次のエピソードが、彼のアメリカ観を物語っていると思います。
少々長くなりますが、『ラジオの戦争責任』から引用します。


オレゴン州ポートランドへ行った松岡は、ダンバー家に引き取られ、学校へ通った。人種差別にあいながらも、やがてオレゴン州立大学を無事に卒業した。
のちにアメリカ人とはどんな人間かと問われ、松岡は次のように答えている。

『野中に一本道があるとする。人一人やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いていくと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原の真ん中で、君たちははち合わせだ。向こうも引かない。

そうやってしばらく互いににらみ合っているうちに、、しびれを切らしたアメリカ人はげんこつを固めてポカンと君の横っ面を殴ってくるよ、さあ、その時にハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通してみたまえ。この次からそんな道で行き合えば、彼は必ずものを言わずに殴ってくる。それが一番効果的な手段だと思うわけだ。

しかし、その一回目に君がへこたれないで、何くそと相手を殴り返してやる。するとアメリカ人はびっくりして君を見直すんだ。おやおや、こいつやちょっとイケル奴だというわけだな。そしてそれから無二の親友になれるチャンスがでてくる』
(松岡洋右伝記刊行会編「松岡洋右-その人と生涯」

松岡はこれと同様のことを、周囲の人間に対して頻繁に語っていたようである。

アメリカ人に対して絶対に譲歩してはならないというのが、アメリカに滞在してえた経験則なのであった。

ラジオの戦争責任』P.156

松岡洋右の外交姿勢には、この経験則が反映しているように思えますね。



次回は、『外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(6)仏印進駐、蘭印交渉』です。



■参考書籍

 

 

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」 小倉 和夫

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コメント

「日本外交の過誤」シリーズ興味深く読んでいます。

当時の時点で、ヨーロッパ方面へのかかわりは、せいぜい防共協定位で
手を引けなかったのかと、いつも話しを読むたびに嘆息させられます。

話はずれますが、私の大正14(1925)年生れの兄は、(旧制)中学
を1年ほどで退学し、陸軍幼年学校に進み、終戦直前の8月始めに
砲兵少尉に任官したところで終戦となり、それまでの6年が無駄になり
ました。現在は内科医院を開業しています。

当時の政府や軍部が、もう少しまともに情勢を判断していれば、もう
少しはましな結果になったはずですから、当時の兄や父の判断は
誤っていなかったと、今でも思っています。

■いわおさん

私は戦後生まれなので、当時の雰囲気は想像するしかないのですが・・・西欧列強に追いつこうと、彼らにならって同じ手法を使っているのに何故日本だけが非難されるのか?という理不尽な思いがあったのかなと、今は考えてみています。
そう考えれば、日中戦争に反対していた人たちさえ真珠湾攻撃を「すっきりした」と感じた理由が見えてくる気がします。

ただ、第一次大戦後による列強の認識変化と、相手国の特質や国力を見誤らなければ・・・

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