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外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(4) 日独伊三国条約締結   

今回は 、日米開戦に向かう歴史の流れの中で、ポイント・オブ・ノー・リターン(引き返し不能点)とよく指摘される、日独伊三国同盟についての章を転載します。

この章では、日本の国際情勢への認識の甘さ(浅さ)と、外交の拙さが、あの戦争の大きな要因になっていると認識していると思われます。




ドイツは、ポーランド進撃の直前(昭和十四年八月二十三日)ソ連と不侵略条約を締結した。当時、平沼内閣は、防共協定から一歩を進める三国条約の締結の問題で、関係各大臣の会議を重ねること六十数回、なお意見がまとまらないでいたところ、この新事態が起きたわけである。

ここにおいて、平沼内閣は、「複雑怪奇」の声明を残して総辞職した。これで三国条約の議は一応打切りとなったが、しかし、それだけですますことだっただろうか。

防共協定、特にその付属秘密協定の精神からいって、この独ソ不侵略条約(ママ)の締結は、重大なる背信行為であった。

これに引き続いて、欧州戦争が惹起されるに至ったが、平沼内閣の後をうけた阿部内閣は、これに対して不介入の方針をとった。今にして思えば、この独ソ不侵略条約の締結と欧州戦争の勃発は、日本が独伊と袂を分かって独自の道に帰るべき絶好の機会であった。

それには国際信義の上からいっても十分理由のあることであるが、日本の利益からいえば、少しくらい無理でもそうすべきであった。

しかし、実際は、日独提携論の底流は以前存続し、昭和十五年一月、米内内閣成立の頃から再び頭をもたげ、特に同年四月の候からドイツの華々しい戦火を前に大いに勢いをえるに至り、これに反対の立場をとった米内内閣は、畑陸相の辞職後後任をえることができず総辞職を余儀なくされた。

ついで(昭和十五年七月二十二日)成立した近衛内閣の松岡外相は、再び三国条約の問題を取り上げ、八月一日、駐日ドイツ大使オットを通じてドイツ側(ママ)の意向を打診し、その結果、ヒトラーは、特派公使としてスターマーを八月中旬日本に派遣した。

こうして、三国条約は、九月二十七日調印された。当時スターマーは、ドイツが日本に求めるところは、米国を牽制し、その参戦を防止する役割を果たすことであるといい、又、対ソ関係については、独ソの関係は良好であるから、日ソ親善につき「正直なる仲買人」となるべき用意があるといっている。

この後段の趣旨は、条約と同時に取り交わされた松岡外相とオット大使との往復文書の中にうたってある。

この条約の眼目は、締約国の一つが現に欧州戦争若しくは支那事変に参入していない第三国から攻撃された場合には、他の締約国は、あらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助するということであった。この第三国がさしむき米国を意味していたことは、いうまでもない。

ところで、まず第一に、この条約の締結は、少しでも米国の参戦を牽制する効果があったであろうか。結果から見れば、少なくとも、米国は、この条約の締結後、対英援助を控え目にしたというような事実はない。

当時、日本では、米国の欧州戦争介入を阻止することが人類の福祉のためだというような高踏的議論が行われた。

米国は、結局日本の真珠湾攻撃後、独伊が三国条約の約により対米宣戦したことによって、他動的に戦争に入ったから、米国が他から宣戦されなかった場合、果たしていかなる時期に参戦し、又は参戦しなかったかというようなことは、すべて仮説の議論になるが、戦後に発表された米英側の文献からすれば、米国は、真珠湾攻撃等のことがなくても、いずれは欧州戦争に参加したであろうといい切ってよかろう。

米国が日米交渉に応じたのも、話ができたら、欧州戦争に介入する場合の後顧の憂いが絶てるというところにねらいがあったと見るべきであろう。

次に、日本の立場からして、どんな利益があったか。

この条約の締結は、もともと、ドイツの戦果の華々しさに幻惑されたことが直接の原因であったと思われる。従って、あまり具体的な目的もなかったかも知れない。

近衛公の手記では、対ソ関係については、スターマーの口車に乗せられておるようであり、対米関係では、米国がドイツを「攻撃」した場合でも、参戦の義務が自働的でないというところに安心を求めている。

もっとも、この手記は、戦後に出されたものであるから、当時は、もっと積極的な考えもあったかも知れない。

少なくとも、松岡外相は、その後における彼の行動から見ても、ソ連を三国側に抱き込み、その力で米国を牽制し日米の国交調整を有利に展開させようというような大望を抱いていたものと思われる。

なるほど、日ソ中立条約は、彼の手によって締結された。しかしその後いくばくもなくして独ソの開戦を見ている。

また、この条約の締結によって、対米交渉を有利に導こうというのは、あまりに甘い考え方であり、米国のインフレクシブルな理念外交的傾向や米国民の直情的な性向を見損なったものであった。

条約自体の目的についてみても、戦争中日独伊の間に具体的に協力が行われたという事実は、ほとんどない。

そういうことが行行(ママ)われるような関係に初めからなかったのである。

要するに、三国条約の締結も、百害あって一利なき業であった。


■補足・私見

日独伊三国同盟の前には、対ソ連牽制を目的とした日独防共協定がありましたが、そのドイツがソ連と不侵略条約を結んだのは、日本に対する背信行為である、しかも日独防共協定が他の欧米諸国の対日不信感の原因の一つともなっていたのだから、ドイツとの提携を見直すチャンスだったと、この調書は指摘しています。

しかし、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、ドイツが破竹の勢いで進撃していくのを見て、いわゆる「バスに乗り遅れるな」のかけ声も高まり、ドイツと手を結ぶべきとの声が強くなっていったようです。

アメリカは、日中戦争(支那事変)で中国を軍事的に支援する一方で日本に経済制裁をかけていました。

一方ドイツが欧州戦線でフランスなど次々と占領していくという状態でしたから、その勢いを借りてアメリカとの交渉を有利にしようという思惑があったようです。

しかし、ヨーロッパ諸国に次々と侵攻、フランスも降伏、そしてイギリス上陸前準備としてロンドンを空爆しているようなドイツと軍事同盟を結んだ上で、アメリカと交渉しようというのはあまりに甘い考えだったということを指摘しています。

特に松岡洋右は、アメリカ留学の経験からか、弱みを見せたり譲歩するようなことをすれば、アメリカ人はどんどんつけ込んでくると思い込んでいた節があり、それでできるだけ対等な立場でアメリカと交渉したいとしてドイツとの同盟を目指したように思われます。

しかし、結果としてはアメリカの態度を硬化させるだけで逆効果だったようです。
このあたりの外交上の見通しが甘かったとの指摘もやむを得ないでしょう。

対米交渉にあたった野村吉三郎海軍大将(予備役)は、最初は「片手に棍棒を持ち、片手に大福餅を持ったような対米外交は、私のような無骨者が出る幕はない」と断ったそうですが、この「片手に・・・」の比喩は、当時の日本人から見ても、この同盟を維持したままの対米交渉は無理があるという認識がみられたものと言えるかも知れません。


次回は、『外務省極秘文書「日本外交の過誤」-(5)日ソ中立条約締結』です。



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