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日本、国際連盟に対し正式に脱退を通告 1933.3.27   

75年前の今日、3月27日は、日本が国際連盟に対し正式に脱退を通告した日です。

松岡洋右が演説をした後に議場を退席したのは2月24日のことですが、3月27日をもって、日本は正式に脱退を通告しました。




(動画はコチラ(YouTube)へ。無音ですが松岡洋右の演説巧者ぶりがうかがえます)

きっかけは満州事変だったわけですが、海外から日本に対する非難の声に反発するように国際連盟脱退論は増えていったようです。もちろん慎重論・反対論もありましたが、リットン報告書に対して各新聞はいっせいに非難し、罵倒していたたようで、世論もそちらに流されていったのでしょう。

太平洋戦争と新聞」から新聞の社説やコラムの見出しを引用すると、次のような感じです

・東京朝日-「錯覚、曲弁、認識不足-発表された調査団報告書」
・大阪朝日-「認識不足と矛盾のみ」
・東京日日-「夢を説く報告書-誇大妄想も甚だし」
・読売---「よしのズイから天井覗き」
・報知---「非礼誣匿(ふとく)たる調査報告」
(P.113)

前にも書きましたが、リットン報告書は朝日新聞他数社から和訳刊行され、「中央公論」1932年12月号の別冊付録にもなっていましたから、一般の人が入手して読むことができました。

復刊されたものを私も読みましたが、日中双方の言い分を必ず併記していること、中国側の組織化された過激な排日運動についても指摘するなど、決して日本を一方的に叩くような内容ではありませんでした。
また満州の複雑な事情から、事変前の状態に戻すのも現実的ではない、としています。
ただ、当時どのくらいの人がそれを精読し理解していたか、といえばかなり怪しい気はします。
というのも、報告書自体、結構なボリュームがありますし、後世の人が読むのと違って、感情的判断が入りやすかったとも想像できるからです。

ともあれ、当時の日本としては、報告書の中の、

同夜における日本軍の軍事行動は、正当なる自衛手段と認めることを得ず

の部分を、絶対に受け入れられるものではなかったというわけですね。
もちろん、満州事変が謀略だったということは、当時の人はほとんど知らなかったという背景もあるわけですが。

報告書には、上記の部分に続いて次のように記されています。

もっとも調査団は、現地にいた日本将校が自衛のために行動したかも知れないという仮説を排除しない


■国際連盟と連盟脱退についての当時の認識

以下の荒木貞夫大将の次の言葉は、陸軍の考え方を要約していたといえるようです。

「連盟に入っていればこそ、すべての点で拘束されて自由がきかない。連盟さえ出ればどんなことでも思いのままやっていい。たとえば、天津地方だって必要に応じて占領することもできるし、どこにどう兵を出しても何らの拘束も受けない。だからこの際思い切って連盟を出てこそ、自由な立場になって自由の天地を開拓し得る」

(「太平洋戦争と新聞」P.116  原典は、「西園寺公望と政局」第三巻P.14(1951))


国際連盟は第一次大戦後に創設され、国境線を守ることを役割としていたわけですから、荒木のいうような自由がないのは当然ですし、日本は四大常任理事国の一つだったのですが・・・

もっとも国際連盟はヴェルサイユ体制維持という使命もあり、敗戦国ドイツに対するあまりに過酷な賠償規定がナチスを生んだ背景にもなっていますから、そもそも長続きできる機関とはいえなかったのかも知れません。

ともかく、松岡洋右は国際連盟の議場で大演説をうち、途中退席してしまいましたが、日本人はその松岡を大絶賛しました。

ラジオの戦争責任」によると、この松岡の演説はレコードにもなったそうです(P.173)
そして、帰国した松岡を、熱狂した国民が出迎えました。

松岡は横浜へ到着した。横浜港は、松岡を待ち受ける熱狂で沸き返っていた。大衆が岸壁を埋め、みなが日の丸を手にし、万歳を何度も叫んだ。

これまでの日本は、連盟の言いなりになっていたと多くの日本人が感じており、理不尽な連盟を縁を切って「自主外交」を打ち立てた松岡は英雄であると解釈された。
(略)
英語ができることが、日本で過大評価されていた時代でもあった。松岡はメッセージを発した。

「日本各地から帰朝に対する熱烈な歓迎電報を受け、感謝しているが、実はこのような熱烈なる歓迎を受ける資格はなく、歓迎を受ければ受けるほど、自分の微力を痛感するのみである」

この謙虚な態度は、さらに大衆の心に火をつけた。

(「ラジオの戦争責任」P.171)

松岡洋右のキャラからすると、この謙虚な態度というのは大衆扇動の計算があったのでは?と勘ぐりたくなりますが、帰国した夜の郷里の歓迎会の席上で次のようにもらしたと伝えられています。

「私は明らかに失敗して帰ってきた。口で非常時といいながら、私をこんなに歓迎するなんて、みんな頭がどうかしていやしないか


■参考書籍
4061598171 太平洋戦争と新聞 (講談社学術文庫 (1817))
前坂 俊之
講談社 2007-05-11

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4569697755 ラジオの戦争責任 (PHP新書 508)
坂本 慎一
PHP研究所 2008-02

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4828413170全文リットン報告書
渡部 昇一
ビジネス社 2006-11

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