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TOP > 特攻・特別攻撃隊 > title - 1945年3月21日 神雷部隊(桜花)初出撃・・・そして全滅

1945年3月21日 神雷部隊(桜花)初出撃・・・そして全滅   

yoko_ohka

63年前の今日、3月21日は特攻機「桜花」を擁する神雷部隊が初めて出撃し、そして一機も母機から離れることなく全機撃墜された日です。

下の動画は、まさにその時のもので、米軍機に搭載されたガンカメラによる映像です。


(1分51秒)

(冒頭に桜花が発進する様子を再現したCGがありますが、初出撃の際は、1機も母機から発進できぬまま15機すべてが撃墜されました)

出撃を前にして、桜花を「使い難い槍」と評した野中五郎少佐は次のように言い残していったそうです。

「成功すればめっけ物だが、そう簡単にはいくまい。俺は陸攻機の腕っこきを連れてゆく。これで駄目なら、もう誰がやっても駄目だ」

「俺で駄目だったら、糞の役にも立たぬ特攻など、ぶっつぶしてくれ」

そしてまた、 「湊川だよ」とも言っていたそうです。

湊川とは、かつて楠木正成が勝てぬ戦いと知りながらもあえて戦って死んだとされる故事のことです。

出撃後は、全機無線機を積んでいるにもかかわらず、申し合わせたかのように、基地からの呼びかけに一切応答しなかったとか。「極限の特攻機 桜花」を著した内藤初穂氏は、

全滅必死の攻撃を命じた上層部にたいする無言の抗議ともうけとれる沈黙であった。

(「極限の特攻機 桜花」P.160)
と記しています。


終戦時、残った桜花の搭乗員たちは、「3年後に靖国神社で再会しよう」と約束してそれぞれ故郷に戻り、そしてその約束は果たされました。

その後、毎年この3月21日には桜花特攻隊戦没者の慰霊祭が靖国神社で行われているそうです。

数年を要した取材の間、毎年3月21日に集まる戦友会にも参列した。
そこには、狂気、狂信を思わせる空気はまったくなかった。
靖国神社をめぐる政治的葛藤とも無縁であった。

(「極限の特攻機 桜花」P.317 )

同じように、元特攻隊員達に取材して「特攻パイロットを探せ」を著した平義克己氏は、3年前の2005年3月21日の慰霊祭の様子を次のように書いています。

参列者の中には元気そうな鈴木の顔があった。彼ももう八十を超えたはずである。林の背筋がすこしばかり丸くなっているような気がした。気温が低いせいもあるだろう、三年前よりは若干参列者が少ないようにも見えた。中には以前話を聞いたことのある顔も数人見られた。

生存者の中でいちばん年少者でも七十七歳である。彼らの足取りも、以前と比べて少しだけゆっくりしていてもおかしくないだろう。それでも、最後の一人が残っている限りはこの慰霊祭を継続していきたいと彼らは言う。

(「特攻パイロットを探せ」P.286)


今日も、無事に慰霊祭は行われているのでしょうか・・・。

なお、詳しく調べたわけではありませんが、ほかの航空特攻は命令によって特攻隊員となった人が少なくないのに対し、桜花搭乗員は、ほとんどが志願によるものだったようです。


■桜花関連過去エントリー

桜花特攻(神雷部隊)隊員練成の地 神ノ池基地跡

人間爆弾「桜花」の戦果とそのパイロット

特攻機「桜花」パイロットに志願した人の証言

桜の季節と特攻

桜花の開発が決まった時

人間爆弾「桜花」について

■参考書籍

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コメント

桜花の運搬船

少々古い記事への投稿で失礼します。

徴兵された叔父が航空母艦「雲龍」に乗り組んでおり、昭和19年(1944年)その沈没と共に戦死。そのとき雲龍は「桜花」を積んでマニラへの輸送任務中、米潜Redfishにより撃沈されたのでした。

航空母艦でありながら、完成時すでに母艦で利用できる航空隊は皆無。特攻兵器の運搬船となり、米潜や米機動部隊が待ち受ける南海へ決死の船出。これ自体、もう決死どころか必死の特攻輸送ではなかったでしょうか。また、桜花についての他の記事で「信濃」も桜花の運搬任務についていたことを初めて知りました。断末魔状態だったとは言え、その用兵は異常としか言いようがありません。

雲龍の戦闘詳報(「海軍航空母艦戦闘記録」アテネ書房)を読むと、雲龍と護衛の駆逐艦(3隻)が米潜に翻弄されているのが分かります。その戦訓の部分では「水中探信儀(アクティブ・ソナー)が欲しい」と訴えています。

他方、その頃の米潜は、レーダー、優秀な魚雷データ計算機、ほとんど航跡を残さない電気式推進魚雷を装備(「大日本帝国のアキレス腱」NHK取材班)。残念ながら彼我の戦力差は物量だけの問題ではなく質でも隔絶していました。

どうしようもない愚痴なのですが、米国との戦争を日清・日露戦争のように2年程度で終わらせることは出来なかったのでしょうか? もしそうなっていたら、叔父は戦死せずにすんだだろうという全くの手前勝手な思いなのですが。。。

あと、私は戦後生まれですので叔父との面識はありません。しかし、祖母が悲しんでいたのを思い出すと、「戦争をやって欲しくなった」「戦争を早く終わらせて欲しかった」という思いがこみ上げてきます。

返信が遅くなってすみません・・・

■Dienさん

>米国との戦争を日清・日露戦争のように2年程度で終わらせることは出来なかったのでしょうか?

対米戦争の前に、日中戦争を終わらせることができなかったことが、そもそもの問題と言えそうですね。
途中で止めれば「それまで戦死した英霊の命を無駄にするのか」という感情を持つ者も増えてくるでしょうし・・・。

日清・日露戦争の頃の戦争は「軍人のもの」でしたが、「国家総力戦」の時代になるとなおさらだと思います。
大西瀧治郎は「特攻であと2千万人も死ねば・・・」と言っていたそうですし、ポツダム宣言が出された後も、国体(天皇)がどうなるかわからないためなかなか決断が出せませんでした。

あらゆる戦争に言えることだと思うのですが、戦争は始めるときよりも終わらせることの方がはるかに難しいと言うことの認識がもっと広まれば、と思います。


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