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空襲と日本の敗戦を予想した人たち   

1945年3月10日の東京大空襲については、テレビも特集していたようですし、来週には日本テレビ系列で2夜連続ドラマもあるようで一般的な認知度は高いかと思います 。

なにしろ日本の首都空爆であり、一晩10万人という死者数は、原爆にも匹敵する被害です。
自分が仕事をしている場所も、63年前は空襲で焼け野原になった地域であり、現在のオフィスビルが建ち並ぶ地上から空を見上げて、「ここにもあの大量の焼夷弾が降り注いだのか」と想像すると、何とも言えない感覚になります。

しかし、日本の都市で空襲を受けたのは、いうまでもなく東京だけではありません。
あまり知られていないことかもしれませんが、規模の大小はあれども、日本の県庁所在地の中で、空襲を受けていないのは、2カ所ほどしかないそうです。
(どの都市だったかは忘れてしまいました。調べがついたら修正します(汗))


お住まいの地域が空襲を受けたかどうかについては、「日本本土空襲(Wikipedia)」か「全国主要都市戦災概況図(国立公文書館)」でわかるかも知れません。
toshikusyu1
ただ、空襲そのものについては、誰もが想像していなかったわけではなく、日中戦争開始1年後の1938年(昭和13)には右のようなポスターが作られていたようです。
ただ、当時はあまり現実的なものとして受け止められなかったのではないかという気がしています。

その中でも、日本が空襲を受ける事態になれば、それは敗戦を意味すると予測していた人も何人かはいたようです。

私の拙い知識から3人ほど紹介すると、一人は先日とりあげた水野広徳
そして桐生悠々と、前回少しだけ触れた下村宏です。

桐生悠々は、1933年(昭和8)年に3日間にわたって大々的に行われた「関東防空大演習」について、信濃毎日新聞の社説で痛烈にそれを批判しました。タイトルも「関東防空大演習を嗤う」という挑発的なものでしたが、反軍的というわけではなく、冷静に防空演習を分析・提言したものだったようです。

そして、この討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは木造家屋の多い東京市をして、一挙に焼土たらしめるであろうからである。
(略)
・・・・・投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失しそこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは我軍の敗北そのものである。この危機以前において、我機は途中これを迎え撃ってこれを射落すか、又はこれを撃退しなければならない。

(「桐生悠々『他山の石』の言論抵抗」(PDF)より一部抜粋)


下村宏はさらにそれ以前に「日本民族の将来」で次のように書いています。

神経過敏にして冷静の気分に欠ける日本国民は、一度爆弾を投下されて、わが都市のマッチ箱のような家屋の燃え上がる炎を見て、プロペラの音を聞く時は、にわかに声をからして、なぜ防空の設備を準備しなかったか、帝国の軍人は何をしているか、政府当局はどうしているのかと、おそらく新聞に雑誌に言論に、非難の声はごうごうとして狂せるが如くになるであろう。
しかしいかに叫んでも、火は燃えていくのである。爆弾は1回また1回風上から投ぜられては、ますます燃え広がるであろう。

(「ラジオの戦争責任」p.206)

いずれも、日中戦争すら始まっていない時期に書かれたものです。

今読めば、あの空襲を予言していたかのようにも思えますが、映像による情報がほとんどない時代、これらを読んだとしても、一般の人があの地獄絵図を想像するのは困難だったかと思います。

下記は日米開戦後の1942年、ラジオで活躍していた友松圓諦の主張です。

みなが生還を期しない、必ず死ぬのだという気持ちになれば、空襲は少しも恐れるに足りない。三度、五度、決まったように空襲でもあれば、「きょうも来そうですね。早く来てくれないと、なんだか気になって、三越へ買い物に行けませんわ」というようになってきます。

また、「きょうの飛行機のケチなこと。先だっての方が、よほど景気が良かった」というような時が必ず来ます。空襲も二度三度となるとだんだん手がわかってくる。人間はそれでだんだん大きくなり、肝ができる。
(略)
日本文化の建設のために、空襲の五回や十回、この世の土産に経験をして驚くのも良いじゃないかと思う。

(「ラジオの戦争責任」p.110)
toshikusyu2

あまりに現実離れした妄言のようにも思えますが、このような主張であっても、空襲が想像の世界の出来事であった時代には、あまり違和感なく受け止められたのかも知れません。
(もちろん私の想像です)

なお、友松圓諦の名誉のために書いておきますが、戦後は猛省したようです。


東京大空襲

アメリカからみた【東京大空襲】



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コメント

当時の戦闘機開発:

いわお です。

日本のロケットの父として知られた糸川英夫博士(1912-1999)の著書「人類生存の大法則」(1995年、徳間書店)のp.110に、「鐘馗戦闘機開発の悲劇」と題した1節があります。そこで著者は、航空機会社の若い技師として対戦闘機空中戦用の「鐘馗」の設計に関与した件で次のように述べています。(原文縦書)

 …鐘馗の設計にさいして、陸軍が要求した性能は……具体的には当時のドイツの名機メッサーシュミット109(Me109)に、空中戦で対抗できる、速度と上昇能力を持った戦闘機ということであった。(中略)私は技術者として命令どおりの大役を果たしたのだが、しかし鐘馗は実戦にはほとんど役に立たなかった。鐘馗が飛び始めたとき、実際に日本にとって一番の脅威となっていたのは、戦闘機よりB29爆撃機だったからである。B29は一万メートル以上の、当時としては超高高度を飛び、それだけの高高度飛行能力のない鐘馗は、B29に手も出せなかったのである。(中略)
戦闘機設計者の私としては、どんな形でもB29に関する情報が欲しかった。それさえあれば、鐘馗を設計変更できたし、日本の降伏も違った形になっていたのである。そして私は、戦後、自殺まで考えなくてもよかったのだ。…(引用終)

一生航空機の設計を続けたいと考えた著者は戦争中に母校に戻って助教授となったが、敗戦とポツダム宣言により日本が航空機の生産を禁止されたときには、真剣に自殺を考えたと、同書p.196にあります。

こんな所にも、旧軍部(ここでは陸軍)の情報収集・判断の不備があるようです。
以上、ご参考まで。

■いわおさん

鐘馗の設計がMe109を意識したものであったことは知りませんでした。

戦時中に航空機設計に携わっていた方で、戦後の航空機生産停止時期を乗り越え、その後の日本の航空宇宙技術に貢献した方は少なくないですね。YS-11の設計に貢献した木村秀政氏は桜花なども手がけていましたし、他にもそのような例があったと記憶しています。

それはともかく、あそこまで国が追い込まれた状態になってもなお、陸海軍の確執は続いていましたし、明治憲法の欠陥など(統帥権独立)から、正確な戦況は東条英機さえ把握できなかったと言われています。
あの戦争が長引いたのには、そういう制度面や派閥などの組織の問題など、あらゆる不合理な面が、歴史を悪い方に導いてしまった面もあるといえそうですね。

戦後、シビリアンコントロールが成立した形にはなりましたが、官僚の問題など、当時の問題をそのまま引きずっている部分も多々ありそうだと、歴史を勉強していて思うことがよくあります。


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