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南京事件論争についての私見   

南京事件についてはまだまだ不勉強ですので、私見を述べるのもはばかられますが、現時点での自分の考えを整理しておくのも一興かと思いますので、少し書いておこうと思います。

(もちろん、「現時点での意見」ですので、今後変化していくかもしれませんし、今の意見がさらに強化されるかもしれません。)

ここ最近では、4本ほど当時の中国大陸の日本軍の軍紀の乱れについてエントリーを書きました。

支那事変勃発から一年半で732名も
支那事変時の軍紀の乱れの特徴
南京事件を批判して自決した軍人がいた
南京事件の「皇軍」に対する当時の日本人の嘆き

誤解されると嫌なので先におことわりしておきますが、

軍紀が乱れていた → 日本軍は酷かった → だから日本は悪い国。

なんて、ちょーシンプルなことを言うつもりは毛頭ありません。

 


乱れていたのには、何か原因があるはず、

・何でそうなってしまったのか
・どこに問題があったのか

私の関心はそちらにあります。このあたりは歴史学者らがそれぞれ研究していますし、そこから後世の人間が教訓とすべきは何なのかって考えることが、歴史を知る意味だと思います。
(だから、都合の悪い事実を隠して美談だけ教え、「日本人として誇りを持てるように」、などという歴史教育には反対です)

あったとかなかったとか、被害者は何万人だったとか、当時の国際法では問題ないとか、そんな主張をしているだけでは、何の教訓も得られないでしょ?
国際的に非難を受けるような多くの事件があったことは、数々の証拠から否定しようのない事実なんですから。


■捕虜殺害について

あと南京事件でもう一つ忘れてはならないのは、捕虜の扱いについてです。

たとえ敗残兵・便衣兵であっても、逮捕して簡易裁判もなしに、後ろ手に縛るなど無抵抗な状態で大量に殺していくことは、「虐殺」という批判は逃れられないと思います。
少なくとも、敵兵を逮捕し武装解除した時点で、「殺さなければ殺される」という戦闘状態ではなくなっていますから。

捕虜の大量殺害の事実については、否定派であっても隠しきれないらしく、「便衣兵だったから違法ではない」とか言っているようです。しかし、日本兵に反撃してくる時はともかくとして、捕虜にした後で殺すことを「便衣兵だから殺しても違法ではない」と言えるのかな、と。


■戦争だから仕方がない?

たまに「戦争だから仕方がない」という人もいますが、その論法ならば、日本への原爆投下も非難することはできないのではないかと・・・。

国民抗戦必携 
「国民抗戦必携」
大本営陸軍部が国民義勇隊に敵と戦う方法を教育する目的で発行、配布


南京事件よりも後のことになりますが、日本も「義勇兵役法」を施行して、男子は15歳~60歳、女子は17歳~40歳までは「国民義勇隊」となって、義勇兵役に服することとしています。
(昭和20年6月22日公布・即日施行)

これによって当時の日本には法的にも民間人は子どもかお年寄りくらいしかいないことになってしまいます。

右の写真は、大本営陸軍部が敵との戦闘方法を解説するために発行して一般に配布した「国民抗戦必携」という冊子です。
(「外交なき戦争の終末」P.174から転写)

この冊子の内容の一部は、藤田兵器研究所さんのサイトに掲載されています。フィギュアで再現していますが、管理人さんの趣味が多少含まれておりますw

日本は、この「国民抗戦必携」という冊子を配布して米兵撃退方法を指導していましたから、仮に米軍が本土上陸作戦を行えば、当時の本土の日本人はほとんど便衣兵?です。それで、アメリカから「戦争だから仕方がない」とか「違法ではない」と主張されたら・・・。

ともかく、「戦争だから(中国民間人殺害は)仕方がない」けど、「日本人殺害は許せない」というのは、蔑視感情でしかなく、嫌中フィルタを通してしか歴史を見ることができないのか?と言いたくなります。
(いうまでもありませんが、当時は中華民国であり右派が嫌いな現在の中共ではありません。) 


・・・話がそれました。


■30万人説について

あと、中国の30万人説を批判する人も、中国が事件をどう定義しているかを理解した上で主張しているのかなぁ?という素朴な疑問もあります。
(私は中国の南京事件の”定義”は知りません)

期間、地域、被害者の定義(民間人のみか、捕虜を含むか、戦死を含むかetc.)で数が変わってくるのは当然のことで、これをおさえない限り「30万人はウソだ」という主張には意味がないでしょう。
例えば、「南京特別市」に範囲を広げれば、東京・埼玉・神奈川を合わせた面積に相当し、その地域の当時の人口は150万らしいし、さらに中国軍人の人数もあるし・・・。


キリがないのでこのあたりでやめておきます。
こういうややこしい問題に対する自分の考えを簡潔にまとめるというのも結構難儀なもので、何度も書き直したりしてくたびれました。


※このエントリーに対するコメントは受け付けますが、返信はしない予定です。際限なくなりそうだから・・・


おまけ

女性への軍事訓練の動画。宝塚歌劇団か松竹歌劇団だそうです。

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コメント

正直今となっては「では何人?」とかいろいろ議論するのも無意味なことのような気がします。それよりはなんでこれほどまでに意見が分かれるのかの方に興味があります。

個人的には自分が受けてきた「日本は悪い」という一方的な教育を子供に受けさせることは反対です。いろいろな冷静な検証をできるようになるにはそれなりに年を重ねてからだと思うので、歴史修正主義まではいかなくても自国の歴史に誇りを持てるように修正はすべきだと考えます。

誇りのために歴史を修正?
冗談でしょう。歴史は誰かの気分で変えるものではない。
そうなればもう歴史は歴史ではなくなる。
誇りがあるならそれこそ過去の間違いについては
よく学び二度と間違いをおこさないように考えるべきでしょう。

歴史を調べれば自分にとって見たくない現実を
たくさん目にすることになるのはある意味当然のこと。
そこから目をそらしてたきりがないですよ。

誰でも自分の過去を振り返れば恥ずかしいこともある。
それが普通でしょう。国も同じだ。
そこから目をそらすのは間違いだ。

それから
「日本は悪い」という一方的な教育
とおしゃいますが私は過去そんな教育をうけてきた記憶がない。
私が授業をさぼってて記憶にないだけかもしれないが。
また悪いことしたなら悪いという他にはないでしょう。。


 一連のエントリーは、大変な労作ですが、ツッコミどころが多過ぎて困惑します。
> 敗残兵・便衣兵であっても、逮捕して簡易裁判もなしに、後ろ手に縛るなど無抵抗な状態で大量に殺していくことは、「虐殺」という批判は逃れられない…
 この点について、証言・伝聞等以外に客観的証拠がありますか。私は寡聞にして知りません。もっとも、南京城への進軍の途上、点々と日本人捕虜の生首がおいてあったなどというのも同様ですが。。。
 あと便意兵というものがどういうものかお分かりですか。正規の兵士が民間人を装い、と同時に民間人を盾にしつつ不意を突いて襲ってくるものです。だからこそ、捕虜となる資格無しと当時から国際法上定められていたのです。ただ、政治的な意味合いから、便意兵であっても一応簡易裁判を行なうポーズを取っておくべきだったという意見には同意します。
 督戦隊も通常の軍隊には存在せず、独裁的な政権にのみ存在するものですが、これも南京事件の犠牲者を拡大させた要因として押さえておく必要があります。
 また、南京事件といえば、普通に考えて南京攻城をめぐる軍民併せた犠牲者を考えるのが当然ですね。そして、南京城内の人口は通常22,3万人、南京攻城戦当時20万前後、その1ヶ月後に20数万人というのは、当時の国際機関による調査結果だったはずです。だからこそ、当初のデマゴーグでも「軍紀が厳正のはずの日本軍が混乱により数千人の虐殺を行なった」というのが精一杯だったわけです。で、随分前に調べた結果ですが、私は南京攻城戦による犠牲者は数千から1万数千人という説に一番信憑性を感じています。ただし、これには日本軍によるものだけで無く、督戦隊及び便意兵による民間人の殺害も含めてのものですが。

 私の見方を簡単にまとめておくと、私は南京事件から汲み取るべき最大の教訓は、南京事件を悪質な戦時プロパガンダと捉えた上で、そうしたものを誘発し、かつ対抗できなかった外交的失敗にあると考えています。当時の日本政府及び国民党政府は基本的には停戦・和解を望んでいましたが、双方の様々な事情からそれに失敗しています。また、利権を害されると感じた諸外国の猜疑心を刺激し、国際世論の反発を招いています。(とくに、イギリス系ジャーナリスト、ドイツ人武器商人、アメリカ人宣教師等がどのような思惑から行動し、プロパガンダに加担していったのかは押さえておくべきでしょう)
 過去のエントリーについても、そうした観点から見直してみると新たな発見があるのではないでしょうか。なお、お勧め本については、残念ながら私なら最初から読まないものがほとんどですw なぜなら、読む前に結論が分かってしまうものばかりだからです。最近は本当に良い本が少ないですね。南京事件については、70年代から様々な議論がありますから、もう少し幅広く見てみる必要があるかもしれません。

FX #z7Xcv.4o様

・自国の歴史に誇りを持てるように修正はすべきだと考えます。

表現に誤りがありました。明らかにバイアスがかかった教育を受けたので、そのバイアスは修正すべきという意味です。

・「日本は悪い」という一方的な教育
とおしゃいますが私は過去そんな教育をうけてきた記憶がない。

それは幸せですね。私は受けてきました。間違えなく。そして自分で見直すまで特に近現代史は見たくもなかったですね、正直。言い争いたくないのでこの辺で、失礼します。

>Mofさん

>正規の兵士が民間人を装い、と同時に民間人を盾にしつつ不意を突い
>て襲ってくるものです。だからこそ、捕虜となる資格無しと当時から国
>際法上定められていたのです。

これが私が南京について再考するきっかけになった点なのですが、
南京攻防戦及び南京城内において、便衣兵と「抗戦した」記録と言うのは現存するのでしょうか? 便衣に着替えて「攻撃」という段階を踏み越えるかどうかで法の庇護を受けるかどうかが問われるので。(あんまり法とか定義とかにとらわれた考察は好きではないのですが。)
私の知る限りでは南京において便衣兵の襲撃に悩まされたという類の資料は見つからないのですが。

あと、小さなことですが、

>ドイツ人武器商人

ラーベのことでしょうか? ラーベが武器商人というのは
限りなく捏造に近い曲解と認識していますが。

本文中にも書いたとおり返信はしないつもりでしたが、初めて書き込みしてくださったMofさんへは返信しておきましょう。

で、「ツッコミどころが多過ぎて」と書き始められていましたので、なにか私の知らない情報などを教えていただけるのかと期待したのですが、ちょっと違ったようですね。

>証言・伝聞等以外に客観的証拠がありますか。

「客観的証拠」とは具体的に何をイメージしていらっしゃるのかわかりませんが、もし、「証言」は使い物にならないとお思いでしたら、「歴史学」としての史実へのアプローチ方法へのご理解不足があるように感じました。

Mofさんの本の読み方についても、

>読む前に結論が分かってしまう

と、読む前からレッテル貼りをされる方が、「私は寡聞にして知りません」というのは、そりゃやむを得ないかと・・^^;

便衣兵についても、ご丁寧に解説をありがとうございます。でも、私があえて「?」をつけていることにお気づきいただけなかったようで。
まぁ、はやりの(?)「広義の・・・」とでもしておきましょうかw

クロソさんのおっしゃっていることと重複しますが、私も南京陥落後の便衣兵との戦闘記録は目にしたことがありません。
軍服と兵器を投げ捨てて、国際安全区に逃げ込んだり、国際安全区に入れるために武装解除された話ならいろいろ読んだことがありますが。
路上に武器が投げ捨てられていたのは、入城した日本兵も見ていますね。
捕虜として捕獲されたときには武器も戦意もなかったと解釈するのが自然かと。

また、イギリス系ジャーナリストというのはティンパーリのことを言っているのだと思いますが、東京裁判でも引用された”What War Means”をティンパーリが書いたのは1938年ですが、彼がマンチェスターガーディアン紙を辞めて国民政府中央宣伝部顧問に就任するのは1939年と認識していますので、プロパガンダに加担するとしても時期が合いません。
そもそも、ジャーナリスト、武器商人(? 下関の発電所のメンテだと思いますが)、宣教師がプロパガンダに加担しなくても、その前にアメリカ、ドイツ、イギリスの外交官によって南京の状況は世界に伝わってしまっていたようですし。

>悪質な戦時プロパガンダ

祖国の危機に瀕しつつも、まともに勝負して日本に勝てない状況となれば、国際世論や強い国家を味方につけようととするのは、国家としては自然な発想ですし、それを「悪質」と言い切れるかなぁと。
日本でも、江戸末期に対馬がロシアに乗っ取られそうになったときには、イギリスを味方につけて追い出させていますし、これもまぁ自然なことだと思います。
そもそも南京事件がなくても、パリ不戦条約違反、九カ国条約違反ということで国際世論としては日本への風当たりが強かったんですし。

>犠牲者は数千から1万数千人

山田支隊が幕府山で処分した捕虜の人数だけでもそのくらいの人数にいきそうですが・・・。
もっとも幕府山は城外ですから、Mofさんの定義する範囲に含まれていないかも知れませんね。

まぁ、いろいろありますが、最後に。
中国のプロパガンダにこだわっていらっしゃいますが、ご自分が何かのプロパガンダに巻き込まれていないかどうかのチェックもした方がよいと思いますよ。私自身の経験ですが、これに気づいたときは相当な目眩を覚えますから、どんな説であってもある程度の距離を置いて眺めるのが軽傷で済む秘訣かと。
人間、誰しも脳内の「確証バイアス」からはのがれられませんが、それを意識しているのとしていないのとでは、思考の深さが全然変わってくると思います。

長くなりました。これにて失礼。
これ以上の返信は控えさせていただきます。
南京事件については、いずれまたエントリーで書くことは考えております。


<補足>
ティンパーリが宣伝活動を開始したのは1938年9月ごろからのようです。
よく、「宣伝活動・プロパガンダ」と言うと、嘘を撒き散らすこと勘違いすることもありますが(自戒を込めて)、目的は世論などを味方につけようとする活動ですから、必ずしも「嘘」である必要はないわけです。場合によっては事実を広めるだけで目的を達することもありますし、事実を誇張する(これが一番多そうですが)というケースもあります。
「プロパガンダがあった」という事実だけにこだわって「実際はどうだったのか」という視点に欠けていることが、否定や矮小化にに躍起になっている人たちの弱点のように思います。

「中国(蒋介石)がプロパガンダをやっていた」
↓↓↓
「なんだ、そうだったのか!」 <---ここで思考停止 ^^;

思考停止すると、その後に入ってくる情報は確実に「確証バイアス」で脳内処理されますので、都合のいい情報は信じ、都合の悪い情報は目に入らなくなるか、否定するためのあら探しに終始してしまい、そこに含まれている事実を見落とします。

なお、蒋介石は、軍事力と謀略一辺倒の日本の弱点を見抜き、この国際世論を味方につけるという「戦略」では日本を圧倒していたのは事実だと思います。
国家の安全保障とは、武力だけでなく国際社会での自国の位置づけを相対的に認識することと、国際世論を味方につけることも重要だということが、あの戦争から日本が学ぶべきことの一つかと。

そういう意味で、歴史を鑑とできていないのは、歴史を自国に都合の良いようにしか解釈できない、戦前からの思想的末裔達(○○派 ←あえて伏せ字)だと考えています。

南京虐殺があった可能性があることはわかりましたが、それを反省して今後の教訓にするなどということが、果たして可能でしょうか?
今後、どこかを侵略する場合の教訓ということですかな・・・・?
一方、中国はチベット侵略で120万人を虐殺したと言われているわけですが、それについては無問題なわけで・・・?
中国側の南京虐殺に対して、あったとかなかったとか議論するより、中国のチベット虐殺を追及するべきだと思うのですが。

■moonさん

チベットについては、中国共産党独裁になってからのことですので明らかになっていない事柄も相当あると思います。虐殺がどの程度の規模でどのように行われたのかは明らかにすべきでしょうね。民主化と国情の安定が伴わないと難しいのかも知れませんが・・・。

でも、反論したいお気持ちはわかりますが、チベットの件を持ち出すなどの論点ずらしは、やはりいけませんね。
「それはそれ、これはこれ」ですよ。
たとえて言えば、駐車違反で交通違反切符を切られている時に、その目の前でスピード違反をした車を見て、「なんで俺だけつかまって、あいつは捕まえないんだよ」と警官にからむようなものかな?、と。

他でも似たようなことをしているからといって、自分の違反行為が軽くなるわけでもなく、その駐車違反によって迷惑を被った人の被害感情が薄まるわけでもありませんし。
(相対化することで自分を慰めることは出来ますが)

>それを反省して今後の教訓にするなどということが、果たして可能でしょうか?

エントリー本文中にも書いていますね。別に軍事方面の問題だけではなく、組織の規律や責任体質など、現在の政治や企業体質、教育問題など幅広いシーンでその教訓を生かせる場面があると思っています。もちろん外交面でも。
別に元々残虐な性質などない人でも、追い込まれた環境や状況、その場の空気などで非人道的なことをしてしまう可能性があることなどもそうでしょう。

徴兵はないと思っていた30代以上の予備役・後備役兵が不意に徴集され、年下の上官に使われ、戦友も多く死に、上海の戦闘が終わって日本に帰れると思ったら休暇もなく首都南京を攻略せよとの無茶な命令。しかも部隊間でどこが早く陥落させるかの競争付き。食糧の補給はなく、進軍途中の民家からの徴発せよ。陥落したらば司令官が4日後に盛大に入場式を行うから、その前に残敵は徹底的に掃討せよ・・・。
平常心・理性が失われない方が不思議なくらいかも知れません。

現代の過労死や過労自殺などにたいする教訓も引き出せる気さえします。

また、日本軍の特質と言ってもよい部下虐めもありました。理不尽な想いは、自分より弱いものに向かうのが常です。皇国史観による日本民族優越感と国を挙げての中国人蔑視もありましたし。

このあたり、教育問題にも関係しそうですね・・・。
もしかしたら相撲部屋の新弟子の事故についても、無関係ではないかも知れません・・・。

Mofさんのコメント・・・あ、失礼、Mofさん改めmoonさんのコメントを読んでいると、以前の自分を見ているようで少々歯痒い想いがします。(^-^;
本を読むにしても、バランスをとるためにも色々な人の違った視点から書かれたモノ、また、きちんとした歴史学者の本も読むことをオススメしたいと思います。

日本人は南京大虐殺のことを驚くほど無知ですね。

その大虐殺に関する映象はYoutube でたくさん見える
生き延びた中国の住民と、租界に住んでいた外国のひとは
当時生き地獄のような光景を証言、またカメラで記録した。
http://www.youtube.com/watch?v=hIUro3olXlY

被害人数はいったい何人か、写真は南京で撮ったがどうか
そのような議論はかなり無意味だと思います。
なんと言っても 日本は戦争を起こし、中国と東南アジアを侵略、そして
数え切れない人を殺し、強犯、虐殺したことは否認できない事実です。

日本人は侵略と虐殺の歴史の真実を認識、そして認めないと、
世界平和か日0友好か、まったく嘘で、
そしてかつ被害の中国と韓国人を馬鹿するだけなのです

それから世界に力を入れようとしても、
立場がない

■ナルさん

おっしゃりたいことはおおむね同感ですが、ひとこと。

>なんと言っても 日本は戦争を起こし・・・

戦争責任が日本にだけあるとは私には思えませんが。
リットン報告書でも中国側の過激すぎる排日運動についてきちんと調査し指摘しています。
大航海時代のような一方的な戦争ではないのですから、日本だけを悪とする価値観に反発する者が出てくるのも自然の成り行きです。
歴史は、白と黒とに分けられるほど単純ではありませんよ。


上の意見に概ね同感???意味分らん。あんたらが何を言おうと日本に責任は無い。マッカーサーが日本は自衛の為に戦ったと言ったの知らないの?素人のあんたらの解釈よりも俺はマッカーサーの言った言葉を信じるよw

否定派と肯定派(捏造派と史実派)

南京陥落当時から「敵の遺棄死体は八、九満」と新聞などに書かれています。
「自衛発砲」と言うのは、捕虜殺害現場を部外者に見られた場合の言い逃れ理由で、それが75年経った今も受け継がれています。
捕虜の処分については「捕虜取扱い報告書」という正規の書類があったのですが、終戦直前に旧陸軍により焼却されています。

この九万人超の捕虜の殺害を認めるほうを史実派とか肯定派といいます。
南京陥落時の10万未満の捕虜のうち、9万人超をある程度、計画的に殺害したという立場です。

この九万人超の捕虜の殺害を認めないほうが否定派で、いろいろ小理屈をつけては否定してきます。

私も2006年に森松さんの破壊工作にあってから調べて分かりました。
森松さんの資料破壊は私が二度目で、一度目は東史郎裁判で、この時は成功して最高裁まで行って勝っています。
森松さんは制服組主流派の後ろ盾のような人物ですから、こんな話はメディアに出ることはありません。

自衛発砲説と処分・虐殺説

南京事件論争と言うのは、南京陥落時の「遺棄死体数8、9万」で表現された捕虜殺害の歴史を残すか、潰すかの戦いです。
残すほうは、当然ながら陥落時の部隊別の捕獲捕虜数から問題にして行きます。
父の所属していた65連隊では、約2万人の捕虜が魚雷営で7千人、大湾子(幕府山の捕虜)で1万3千5百人殺害されています。

潰すほうは秦郁彦氏や保坂正康氏などのように、東京裁判の中国側証言から問題にして行きます。
東京裁判では日本側の反証は一切(というか殆ど)無かったのですから、詳細に検討してゆけば、かなり怪しいものとなり「まぼろし」化して行きます。

なぜ、この歴史を残すのかと言うと、日本人は自力で国民主権国家になれたわけではないので、こういった歴史を残すことにより、ポツダム宣言受諾以前の天皇主権国家と、それ以後の国民主権国家との違いを認識し、自覚する必要があるからです。

南京大虐殺に対する誤解

南京大虐殺とは、南京陥落時に旧陸軍が「遺棄死体数八、九萬」と当時の新聞に書かれた捕虜の殺害を行なったことに由来する。
これを日本政府が認めることは永久に出来ないだろう。
なぜなら、こんな事実を認めれば自衛隊の軍事行動はまったく不可能になってしまう。
また自由主義国家と共産党独裁国家の中国が歴史認識を一致せさることも永久に不可能だろう。
南京戦の当事者は蒋介石の国民党政府と、戦前の天皇主権の日本である。
現在の中国共産党政府と国民主権国家の日本でわない。

問題は、森松俊夫氏や田母神俊雄氏の制服組主流派が右翼と結びついて、上記事実の隠蔽を図っていることであるが、これは森松氏の二度の犯罪を白日の下にさらすことによって衰退化せさることはできる。

何度も言うことだけど、上記事実は「栗原利一」の名前でしか残すことは出来ないだろうし、私は段ボール箱7箱の資料を中国側に寄贈する予定でいる。
中国側は、栗原利一が地球上に存在していたのだから「南京大虐殺はあった。」と言えるし、日本側は「あれは蒋介石軍とのことだ。」といえばよいでしょう。
「さすがの揚子江もまっかになった」時代の話で、金日成の起こした朝鮮戦争の結果、日本で公式に認めることが出来なくなった事実なのだから。

原爆投下された日本の反米と
中国の反日と
比べてみたら、何が問題か分かる気がする。

事実の継承は必要だが
憎しみの連鎖、憎しみの継承は、必要ない。

南京捕虜虐殺から戦陣訓へ

南京大虐殺の実態が、南京陥落時の「遺棄死体数八、九満」で表現された大規模な捕虜殺害であることは、今まで説明してきたことで、お分かりいただけたかと思います。

昭和16年1月に発訓された「戦陣訓」が島崎藤村などが係わって作成されたことは知られたことです。国を挙げての対米戦争準備だったということだと思います。
私は、単純に「陸軍悪人論」に組する者ではありませんが、この中の「生きて虜囚の辱めを受けず」が後の対米戦争で、日本兵の投降を困難にし、犠牲者を増やしたこともよく知られた事実です。

どうも、この一文は南京での中国兵捕虜虐殺を念頭に置いて作成されたもののようなのです。

たった三日間で「八、九満」の捕虜の殺害を実行するのですから、「自衛発砲」と言うことは考えられません。

昭和12年12月の南京での大規模な捕虜殺害を受けて、昭和16年1月の、この一文が考えられたということです。
つまり、南京大虐殺は戦陣訓を通じて、日本人にとっても被害を及ぼしたのです。
これが制服組主流派(戦史部グループ)がいまもって南京大虐殺を認めない理由のようです。

畑俊六氏

「南京事件(1937年)に対して、松井石根大将らの交代を陸軍大臣に進言した。翌・昭和13年(1938年)には、松井の代わりに中支那派遣軍の司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮。」、「陸相在任中に戦陣訓を発案した。」とあるので、南京での捕虜虐殺と「生きて虜囚の辱めを受けず」とは結びつく。
氏は南京事件の実態を十分知っていたのだろう。

生きて虜囚の辱めを受けず

65連隊の幕府山の捕虜の例

(解放すると言われてはぬか喜びさせられ、逃げようとすれば小銃で頭をぶち抜かれ、河に浮かべたたった二艘の小舟で対岸に送ってやるからなどと騙され、)生きながらえて捕虜となり、無様に虐殺された蒋介石軍兵士のように「生きて(米軍からの)辱めを受けないように、」というありがたい訓令により、かくて玉砕戦に突入していくのである。

戦史叢書の中の幕府山捕虜殺害

これが「両角大佐手記」という平林貞治氏、阿部輝郎氏の手になる歴史捏造資料に基く、「戦史叢書」の中の幕府山捕虜の殺害です。
「両角大佐手記」と「栗原利一のスケッチブック」を比較すれば誰でも判る歴史の捏造です。

・・・・第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。・・・・
(戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』)

森松俊夫氏に関しては「森松俊夫氏の二度目の犯罪」、「森松俊夫氏の正体」でグーグル検索していただくとわかります。

別に

産経新聞(2012.5.31)の正論に、ジェームス・E・アワーが私と同じ意見を書いてる。軍事史が捏造されたのはマッカーサーの誤策のせいだよ。

皆さんに腹立たしさを感じます!

 駐車違反の時にスピード違反を見て…というのも論点のすり替えですし、歴史の個々の問題だけ取り上げても、民族意識・主義を刺激するだけですし、そこだけで議論していたら、あなたにもバイアスがかかっていると見えてしまいます。日本だけの問題とは思わないということで、少し安心しました。
 私は戦後から現在までの歴史的経過を見ていると、戦勝国が敗戦国に問題を執拗に突きつけているのは見えるのですが、それらの戦勝国あるいはそちらにいた国の方までが、第二次大戦時以上の戦闘状態を繰り返しているのしか見えてきません。言いたいのは、敗戦国は自虐的に自らの問題を見つめていくことになるのでしょうが、ただ敗戦国以外の国では、大戦から何も学んできていないように見えてしまうのです。
 まるで負けた方が悪いのだということしか考えていないのか、とさえ思えてしまうのです。やはり、個々の交通違反を指摘すること以上に、逆にもっとざっくりと単純に、理屈抜きに戦争は何であろうがどうであろうが悪いものだという視点から論理立てしないと、民族主義対リベラル左派の水対油の永遠の戦いの繰り返しになってしまうような気がします。
 戦争はどこをとっても悲惨なものであり、加害者と被害者が交互に入れ替わり、結局は加害者も被害者であり被害者もどこかで加害者になっています。砲弾の下の人間がどんな形になっているのか、わかりますか?
 日本を非難する国でさえ、戦争から何一つ学んできているとは思えない行動をしています。
 従軍慰安婦問題で日本を責める韓国でも、ベトナム戦争ではどんなことをしてきたのか。在韓米軍に国を上げて慰安婦を差し出し、その慰安婦母国を提訴しましたが、結果はどうなっているのか。ベトナムへの謝罪はしているのか。もちろん、日本にも問題はあるでしょう。
 しかし、個々の問題を上げていれば、自分の問題がそれで軽くなるとか帳消しになるわけでもありません。
 どちらの立場に立とうが、戦争とそれに通ずる批判合戦も、全く意味がないどころか、自分が正義だと主張し合っている姿そのものに、腹だたしさを感じます。不毛な議論です!
 

南京事件論争の本質

南京事件論争の本質は、南京大虐殺があったか、無かったかの論争ではありません。
日本軍が南京陥落時に「八、九満」の捕虜を殺害したのは「畑俊六日誌」では「作戦」であり、本多勝一氏の栗原証言でも「処分」です。
問題は、この歴史的事実を残すのか、つぶすのかで論争している、ことなのです。
自国の歴史を、自ら葬ってしまったのでは、自国の歴史から何も学べない、ということです。

残すか、つぶすか、の論争なんて、そもそも論争ではないのです。

森松俊夫氏の二度目の犯罪

「森松俊夫氏の二度目の犯罪」(思考錯誤アーカイブ)でグーグル検索すると、2006年に私が直接の被害者となった、父(栗原利一)の資料破壊事件の詳細が表示されます。
2006年にもなって(森松氏は2001年ころにも、東史郎裁判でも同じことを行なっています。)、自衛隊創設の大功労者である人物が、こんなことを行なっていることが問題なのです。

南京研究家は誰でも知っていること

(コピー)

南京陥落時の捕虜殺戮の規模が「八、九満」であることは、南京研究家なら誰でも知っていることです。

知った上で、つぶす派は諸説を採ります、そうすると無にも知らない国民は、思考停止状態になって、南京陥落時の捕虜殺戮の規模に関しては、決定的証拠は無いんだ、と判断するようになるのです。

それこそが、つぶす派の目的なのです。
(その意味では、野田佳彦氏も同じです。「八、九満」説を採ると自衛隊が全く使い物にならなくなってしまうのです。)

服部卓四郎氏が陸士34期、「日本南京学会」の理事長の瀬島龍三氏が陸士44期、森松俊夫氏が陸士53期などと続きます。

森松俊夫氏の謀略裁判

(コピー)

森松俊夫氏の一度目の犯罪が、東史郎裁判です。
これは蟹で有名な、間人(タイザ)の東史郎という町議(金鵄勲章も授与された、親父と同じく。)が、森松俊夫氏に起こされた謀略裁判で、「加害と赦し」に詳しく書かれています。
まず、東氏の日記を「京都市の平和のための戦争展」に貸し出させ、後の裁判の証拠となる部分を抜き取り、それから名誉毀損裁判を起こしたものだから、東氏は最高裁まで行っても勝てなかったんです。
これを森松氏と板倉由明氏が行なったのが2001年ころで、私の方は2006年です。
私が「南京」について勉強し始めたのは、森松氏の二度目のほうがキッカケです。
そして東裁判のことを知ったのは2009年です。

森松俊夫氏の経歴

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大正9年6月20日 京都府出身
陸士53期 元陸軍少佐 元陸将補
第1幕僚監部(現陸幕)第3部、武器学校教官、幹部学校教官
防衛研修所戦史編纂官などを歴任 昭和48年退官、同戦史部調査員を経て昭和60年3月退職

(私も含めてですけど、一般の日本人は自衛隊が旧日本軍関係者によって作られたことや、彼らが軍事史を捏造しまくっている、なんてことは全く知らないし、制服組主流派が右翼と結びついてしまった、なんてことも全く知らないんですよ。)

さすがの揚子江も真っ赤になった

「さすがの揚子江も真っ赤になった」でグーグル検索すると、65連隊の下関(シャーカン)での2千人斬首が表示されます。
こんなことは、歴史として残す意思がなければ残せません。

秦郁彦氏

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秦郁彦氏がどんな素性の人間かはお分かりいただけた、と思います。
秦氏側は、「南京」について、しゃべる人間がいると、おなじことについて話す人間を紹介させ、両方とも、戦友会や右翼を通じて、黙らせていきます。
それで、児玉定氏は黙らせられ、東史郎氏は戦友会を退会させられたのです。

「森松俊夫氏の二度目の犯罪」の証拠の一つは、日本の最高裁の判決文です。
「誰に盗られたか、いつ盗られたかも分からない」のでは、となって東史郎氏は敗訴となってしまったのです。

彼らが、どれほど破廉恥な人間達であるか、お判りいただけたと思います。

岸信介氏、笹川良一氏、中曽根康弘氏、石原慎太郎氏などの日本の保守勢力の頂点にいた人で、「南京の真実」を知らない人はいません。

ついでに

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「南京」は大別して、3域に分かれます。

一つは、城内での不良行為などで、ジョン・ラーベの本に詳しく書かれています。

二番目は、城外での「八、九満」の捕虜などの大量殺戮です。
(歴史学上は、この「遺棄死体数」説が定説です。 )

三番目は、城外での戦闘行為中の犠牲者数で肯定派は20万人以上としています。

なんといっても、最重要なのは城外での捕虜の殺害で、これは戦後日本が、今も隠蔽中の事実です。
これを認めていない説は、全て否定説です。
外務省、防衛省などが中心となり、今も一生懸命潰している最中ですから。
「南京」の歴史は、潰すか、残すか(の喧嘩)なので、はたから見てても見当はつきません。

捕虜取扱い報告書

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南京論争の基礎となる問題点

1.南京陥落時の捕虜の処分については、「捕虜取扱い報告書」という軍の正式の書類があったのですが、敗戦直前に旧陸軍により焼却されています。

2.日本では、この捕虜処分を肯定する形での、資料の収集は行なわれていないし、保存する機関もありません。

従って、旧日本軍の軍事行為に関することがらでありながら、中国側の南京大屠殺記念館にしか資料を寄贈する先がないのです(現実に、そうなっています。)。

歴史捏造の原点

(他のブログからのコピー)

1981年に、自民党が、歴史教科書攻撃キャンペーンをしました。
攻撃の標的は、南京大虐殺、従軍慰安婦、沖縄戦自決でした。

これを背景にして、
1982年に、日本政府・文部省は、歴史教科書に<記述の修正>の圧力を掛けました。

(と、いうことでした。)

慰安所

スケッチ帳0042に慰安所が記載されています。
部隊本部、大隊本部に隣接されています。
あの当時は慰安所なんて、当然の施設だったのです。

スケッチ帳0007の「12月31日」の最後の行に「奉天では慰安所に1回も行かなかった。」とも書かれています。
満州事変当時から、慰安所は当然の施設としてあったのです。

南京の捕虜処分の公式書類である「捕虜取扱い報告書」が焼却されたことからすると、慰安所や自決命令に関する書類も焼却されている可能性が大です。
それらの事実を知った上で森松俊夫氏等は軍事史を捏造しているのです。

両角大佐手記

正式書類が焼却されてしまったので、65連隊では終戦時少佐の平林貞治氏と、後に福島民友新聞社の論説主幹となる阿部輝郎氏による「両角大佐手記」という歴史捏造資料が作られ、それを基に、昭和36年ころ「郷土部隊戦記」が、編纂されます。
両氏は、上記手記をもとに4冊の歴史捏造本を書きます。
65連隊だけでなく、各地でも同様にして歴史捏造本である「郷土部隊戦記」が編纂されます。

こういった非常に大規模な、軍事史の捏造が行なわれた結果、論争の当事者以外には、全く見当がつかなくなってしまったのです。

秦郁彦氏と吉田清治氏

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従軍慰安婦の問題で、この問題を最初に言い出した人は吉田清治氏だ、と書かれていたので、吉田清治氏で調べたところ、秦郁彦氏がわざわざチェジュ島まで行って、現地調査をした上で、吉田清治氏の慰安婦の話は捏造だ、という例のごとくの捏造派の得意とする捏造話が出てきました。
自分で捏造しておきながら、相手を捏造だ、と非難するやりかたです。

捏造派は、わざわざ現地調査と称するものまで行なって、歴史を捏造するんですよ。
あの時代に、従軍慰安婦が無かったら、そのほうが大問題だっただけなんです。

秦郁彦氏が骨の髄まで、歴史捏造者だ、ということがお判りいただけたと思います。

遺棄死体数説は踏み絵

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「遺棄死体数説」は江戸時代のキリシタン禁止の踏み絵のようなものです。

私は、遺棄死体数説が歴史学上の定説であることは勿論知っています、でもそれが禁教であることも知っています、だから決して遺棄死体数説は採りませんし、近づきもしません、これからも私を日本の出版界で生活させてください、といった秦郁彦氏や保坂正康氏のような保守系の歴史学者の決意表明のようなものです。

今更、八、九万もの捕虜を殺害したなんて自衛官には勿論、子供達にも教えられません、といったところです。

八、九万の捕虜の殺害

「八、九万」の捕虜の殺害だから、何も無かったわけではないし、ホロコーストのようなことがあったわけでもない。

日本と言う国の構造的右傾化

秦郁彦氏をウィキペディアで調べたら、日本の構造的右傾化が分かりました。
PHP研究所、文藝春秋社、中公文庫なども捏造派の範囲です。
原剛氏も森松俊夫氏と同じく、著名な軍事史捏造の大家です。
一般の日本人は、捏造した軍事史にしか接触できないようです。

戦史叢書と南京大屠殺記念館の差

「戦史叢書と南京大屠殺記念館の差」でグーグル検索すると私の書き込みが表示されます。

昨夜のNHKの「負けて勝つ」でウィロビーが服部卓四郎に自衛隊(警察予備隊)を作らせた経緯のようなことを演じさせていました。
最後の65連隊長、服部卓四郎氏はガダルカナルで2万の日本将兵を犠牲にした指揮官だったそうです。

存在しなかった南京虐殺

10月3日の産経新聞のコラム「from Editor」の題がこれです。

『日本「南京」学会が解散した。...
「虐殺」は当時の国民党政府のプロパガンダであることがはっきりした。所期の目的を達したので解散したのである。...』と。

産経新聞の発行部数がいくらかは知らないが、国民党政府のプロパガンダである、というのは昭和13年当時からの日本陸軍のプロパガンダです。
昭和13年の新聞なんて、現在の読者には確かめるのが困難であることを承知で、このような赤記事を書くのでしょう。

(日本の政治的混乱はいくら続いても世界的には全く影響がありません。なんていっても極東ですから。)

ジャーナリストの方が面白おかしく書くものだから

「ジャーナリストの方が面白おかしく書くものだから(我々軍人はたまったものじゃない)。」という森松俊夫氏から私が直接お聞きしたフレーズは重要です。

全貌昭和60年3月号の阿羅健一氏捏造の栗原証言でも使われています。
あれは「作戦」だった、という証言もまた、重要です。
この二つのフレーズは制服組主流派(のドン)が言論右翼(行動右翼)と結びついてしまった証拠のようなものです。

大体、当時26歳剣道三段の高等小学校出の下士官が「作戦」が判るハズがないし、剣道でしか人生を送ってこなかった父親は「ジャーナリスト」などという言葉とは無縁の人でしたから。

南京陥落時10万捕虜殺戮事件

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南京陥落時の捕虜の殺戮は10万が史実派、大虐殺肯定派の主張です。
多少の捕虜がいても最終的に殺害されれば、遺棄死体数がその分増えます。
「栗原利一」で画像検索しても表示されます。

南京市街図

これは否定派の南京市街図である。
正確で参考になる。
この地図でわかるように、南京城というのは鎌倉市、小平市などと同じ広さである。
一言でいうと、とてつもなく広いのである。
その城外で10万弱の捕虜を殺戮(処分)しても城内の西洋人や一般人は全く知ることなど不可能なのである。
国民党軍が、銃弾の補充がきかなくて投降した、という父の証言がもっとも妥当である。

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日本軍も将校以下7名が戦死した。

「戦史叢書」のこの犠牲者は肯定派も否定派もまったく同じ認識です。
小野健二氏の調査と親父の証言からは以下の事情が判明しています。

幕府山の捕虜1万3千余は殺害現場の大湾子までは歩兵部隊により、引率されて行き、現場では機関銃部隊に引き渡され、引率され100m四方の窪地に座らされます。
このとき、だれもが知ってるM少尉が、座っている捕虜の一人を切ろうとしたところ、捕縛をほどいた捕虜の必死の抵抗にあい、刀を奪われ負傷します。
これで親父の証言通り「将校がやられたぞー。」と声が飛び交い、一斉に重機関銃が掃射されたのです。
捕虜を引率していた機関銃隊の6人が犠牲となり、M少尉もその日の晩に(実際はその場で)亡くなったことになってます。

週刊金曜日1993.12.10

南事件害論争というのは大虐殺肯定派と否定派が集団で論争しています。
基本的に大虐殺肯定派は「残す」派なのですが、すべての重要な情報が本になっているとは言えません。
その一つが小野健二氏と吉田裕氏の「週刊金曜日」の記事です。
この記事は私の友人の中でも最左翼の友人からのメールで付随的な情報で入手できたものです。
直接は「週刊金曜日」からコピーで入手できます。
この中に魚雷営が65連隊であったことが記載されています。

週刊金曜日1994.2.4

この記事も前記のメールで入手できた小野健二氏の記事です。

服部文書

「潰す」派の言い分は、「ポツダム宣言」は受諾したが、「東京裁判」はポツダム宣言の趣旨に違背しているので、受け入れなくてもいいそうです。
東京裁判の時に、旧日本軍関係の重要書類は服部卓四郎氏のご実家のあった山形のほうに、隠されていて、戦史部ができてからはこちらに保蔵されています。
機密書類として誰もアクセスできないので公刊戦史書である「戦史叢書」と矛盾するような公式書類は永久に日の目をみないことになっています。
これが捏造派の強気の根拠にもなっています。
といったわけで、南京論争は永久に続くのでしょう。

南京陥落時10万弱捕虜殺戮事件

(コピー)

南京事件は軍隊として特別なことをしたわけではありません。
南京攻略戦では日本軍が大勝利して、10万弱の捕虜を得る結果となってしまいました。
それで対応に困り、ほぼ全員を計画的に殺害した、といったところです。
むしろそれからがこの事件のややこしいところで、敗戦により公式書類は焼却され、無実の5人の軍人が死刑になり、900人前後の被疑者が解放され、事実が知られることのないまま軍事史が捏造され、そしてついには自民党による歴史教科書攻撃キャンペーンが始まった、といった具合です。

「週刊金曜日」の記事はそれぞれ8頁、6頁の長い論文で極めて重要です。
「週刊金曜日」に連絡して入手されることをお勧めします。

週刊金曜日1993.12.10より

以下は「週刊金曜日1993.12.10 兵士たちの陣中日記ー小野賢二さんの仕事 吉田 裕」よりです。

・・・敗戦直後の時期に、・・・陸海軍を中心に重要資料の組織的・計画的焼却が行われている・・・いわば国家の手によって証拠の隠滅が大規模に行われているのである。・・・

といったことからもわかるように、捏造派と論争をすること自体もあまり意味がないのです。
だから田母神俊雄氏や河村たかし氏が「南京虐殺がなっかた。」という度に、失笑を買ってしまのでしょう。

スケッチ帳

スケッチ帳NO27上段
スケッチ1(スケッチ帳NO27上段)の注記

鳥龍山、幕府山砲台
白旗を翻し投稿する支那兵、1個分隊で46名か捕りょを降して連れて来た。
この時は敵が1人として抵抗するものがなく、
実に従順なものであった。が□し戦友が沢山戦死負傷させたのはこの敵と思うと
たた敵かい心にもいるのみであった。でも投稿者はすなをに受け入れて取り扱った。
スケッチ帳NO27下段
スケッチ2(スケッチ帳NO27下段)の注記

(左上)
第1大隊兵長以下135名であった。(田山大隊)
その部隊に1万3,000名余捕りょを降して
右に集めた敵の武装解除した兵器弾薬の山
我分隊は最後尾に終り右武器を石油をかけて
もして使用不能にした。

(左上2段落目)
50mおきに兵をつけて南京兵舎に向けて連行するところ。
兵隊が皆で135名丈けだった。田山大隊長。

(右下、山の絵脇)
兵器の山

(右下)
これは13、500余名の武器弾薬の山である。
栗原はこの処理を命ぜられて最後尾にて
部下と四方から一斉に火をつけてもして了った。
天をついて居った。
スケッチ帳NO28上段
スケッチ3(スケッチ帳NO28上段)の注記

下の廠舎で我が部隊において13,500名を3日間飼った。
食糧は鳥龍山砲台から馬で運搬して毎日カユ2食を食べさせた。
13,500と言ふ莫大な兵を飼うには一方ならぬものであった。
水さい与えることは出来ず、兵は自分でやった小便をのむものも居た。

(以下画中の文字)
      揚子江
              鳥龍山至
          池
 藁屋根の捕りょ収容所
スケッチ帳NO28下段
スケッチ4(スケッチ帳NO28下段)の注記

   揚子江
ここの中央の島に1時にやるためと言って
船を川の中ほどにおいて集めて、船は遠ざけて
4方から一斉に攻撃して処理したのである。
この時撃たれまいと人から人へと登り集るさま。
即ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。
(島流し)
その夜は片はしから突き殺して夜明けまで
その処に石油をかけてもやし
柳の枝をかぎにして1人1人ひきじって
川の流れに流したのである。
我部隊は13,500であったが
他部隊合わせて70,000余と
言って居られてた。
全く今考えて想像も出来ないことである。

防衛研究所戦史部

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研究所<戦史室>の源流

...この<史料整理部>の前身は<史実調査部>、さらには<史実部>であるが、
一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の<服部卓四郎>だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、
周辺に<旧日本軍の幕僚将校を集め>て「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

一方、「服部グループ」は、<史料整理部>を中心にして、「大東亜戦史」の編纂にも、
大きな力を注いだ。
この点について、二代目の<戦史室>長をつとめた<島貫武治>は、次のように書いている。

 <史料整理部>の陣容は俊秀をもって当てられ、服部卓四郎、...各大佐、
 ...三少佐等で、
 わが国においても<政府による正統の大東亜戦争史を編さんすべき>であるとの願望を抱き、
 史料の収集整理に努めるとともに、昭和二十八年には『大東亜戦争全史』四巻を世に発表した。

...著者は服部卓四郎となっているが、「実際は各戦域の作戦参謀級の幕僚が、分担執筆し、
<稲葉正夫>(四二期、終戦時陸軍省軍務局軍事課員、中佐)がまとめたもの」であり、
服部周辺の<旧幕僚将校による合作>だった。
そして、「後にこの整理部から多くの人が、貴重な史料とともに戦史室に転用され」、
<戦史室の中心>を、これらの<旧幕僚将校が占める>ようになったのである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、
<旧軍の立場を代弁する><弁明史観的><性格>を色濃く持たざるを得なかった...

(この戦史部OBで終戦時少佐のM.T氏が2006年に父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作

を行なって失敗した事は以前にお話しした通りです。)

歴史教科書攻撃キャンペーン

「歴史教科書攻撃キャンペーン」でグーグル検索すると、いろいろ出てきますね。

第二次教科書攻撃(1980~82)
・80年衆参同日選挙の自民党の圧勝ー政府、自民党、財界一体となった攻撃(75年「総合安全保障戦略」78年、日米防衛協力のための指針ーガイドライン決定・中曽根の「日米運命共同体」「日本浮沈空母」)
・80年1月「自由新報」が「いま教科書は」のキャンペーン開始。奥野法相、田中文相 教科書攻撃、自民党文教部会「教科書問題小委員会」設置。民社党教科書偏向攻 撃。80年、閣議決定「教科書で北方領土、民族国家意識の高揚の必要」。自民党役員会「偏向教科書」攻撃キャンペーン実施を決定。
・こうして、80年検定はほぼ全分野での検閲。侵略、南京大虐殺、強制連行、安保、九条、自衛隊、公害など。各紙全面的にとりあげる。アジアに知らされる。

長島昭久氏

日本の民主党にアメリカのスパイがいるとは。
ウィキペディアでこの人を調べていて愕然としました。
自国の政治家が、自国の民主主義を潰しているなんて。
ま、日本の民主主義なんてこの程度のものなんでしょう。
中国共産党に日本人の言論の自由を保障してもらおうとは夢にも考えませんでした。
ちかごろ家の塀に民主党のポスターが張られない理由がわかりました。
(もちろん、共産党や社民党には走りませんから。)

秦郁彦氏の陰謀論

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少し前にメル・ギブソンとジュリア・ロバーツの「陰謀のセオリー」という映画をCATVで見ました。
メル・ギブソンの主人公がたまたま国家的陰謀を知ってしまった、というストーリーなのですが、ジュリア・ロバーツが「どうしたら陰謀がわかるのか?」と質問したところ、主人公役のメル・ギブソンが「絶対にわからない。ただ、彼らがドジしたときだけ、それがわかるのだ。」と言ってました。
「南京」については、まさに「森松俊夫氏の二度目の犯罪」がそれに当たるのです。
それで「陰謀論」で調べたところ、秦郁彦氏の「陰謀論」を知りました。
秦氏は、軍事史の陰謀にいろいろ加担していますが、「陰謀」さえも自分たちの範疇で決めよう、という考えのようです。
ここいらを知って、産経新聞を購読すると面白いですが、彼らが部数を伸ばすのも嫌なのでお勧めはしません。

工藤美代子氏

新しい歴史教科書を作る会の副会長である工藤氏が2009年に書いたのが、関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実、という例のごとくの歴史捏造本です。
たまたま、朝鮮人虐殺は5千人が定説だったな、と考えサーチしたら、この本を知りました。
日本のメディアがどれほど腐っているか、馬鹿な国民は知ることができないんですよ、私が以前から言ってる「自民党の愚民化政策」の成果なんでしょう。
こんなことは韓国政府や中国政府も承知のことです。
従軍慰安婦はそれだけの問題ではないということです。

森松俊夫氏の一度目の犯罪

森松俊夫氏の一度目の犯罪が東史郎裁判です。
この裁判が謀略裁判であることの証拠が1998年の東京高裁の控訴審判決です。
以下はその「事実及び理由」の一部(「加害と赦し」より転載)です。

...控訴人東は、昭和62年ころ、「平和のための京都の戦争展」(以下「京都の戦争展」という。)に資料として貸し出した際に紛失したかのような供述(原審)をするが、その供述自体極めてあいまい、不明瞭なものであり、他に右原資料が紛失したことをうかがわせる証拠は全く存在しない(原資料というべき貴重な陣中メモが関係者によって紛失されることは、到底考えられない。
京都の戦争展の実行委員会の代表者によれば、当初から、右の原資料はなかったという...陣中メモの一部のみ(しかも相当部分)が廃棄されたとは認められない。
...陣中メモは、元々作成されていなかったものと認めるほかない。

これを「森松俊夫氏の二度目の犯罪 思考錯誤」(グーグル検索)と比べると、驚くほどの相似が認められる、という結果になります。
日本の法曹もなめられたものですね。

黄河決壊で市民89万人が犠牲

大体、旧日本軍関係者などが「南京」について真実を認めることが出来ない事情についてはおわかりいただけたと思うのですが。
これも友人たちに話すとバカ受けする話です。
南京から遁走した蒋介石軍は、昭和13年に入って日本軍の進撃を阻むために、黄河を人工的に決壊します。
これにより、3か月間、日本軍は足止めされます。
この時の犠牲者が65連隊の「郷土部隊戦史」によっても89万人で、全て一般市民です。多い数字では100万人とも言われています。
被災者は1000万~3000万と言われています。
ここいらが今の日本人に知られることも嫌なのでしょう。
(なんせ真剣に中国全土を占領することを考えていたのですから。)

靖国はアーリントンと同じ

制服組主流派の大ボスである森松氏のこれまでの大活躍を知ると、A級戦犯合祀にも氏の活躍が想像されるのですが、時期としてはあってますね。
1978年(昭和53年) 昭和受難者としてA級戦犯を合祀。
1979年(昭和54年) 朝日新聞が報道。
1980年(昭和55年)~1982年(昭和57年) 自民党と財界で歴史教科書攻撃キャンペーンを開始、歴史教科書の内容に干渉。
1984年(昭和59年) 毎日、朝日ジャーナルが栗原利一証言を掲載。
2001年(平成13年) 東史郎謀略裁判決着(森松俊夫氏の一度目の犯罪)。
2006年(平成18年) 栗原利一スケッチ帳破壊工作事件(森松俊夫氏の二度目の犯罪)。
私が「南京」の勉強を始めたキッカケです。
2009年ころには大体のいきさつがわかりました。

表題は7月26日の産経新聞の、ヴァンダービルト大学、日米研究協力センター所長、ジェームス・E・アワー氏の「正論」の中見出しです。
靖国とアーリントンでは主権者が違う、というのは憲法上の常識でしょう。

「正論9月号」のジョージタウン大学教授、ケヴィン・ドーク氏の記事の見出しが「憲法改正と靖国参拝で民主主義国家たれ」というものです。

軍事史の捏造はアメリカ右派の後押しもあるわけです。

オリバー・ストーンの「原爆投下」

先日、NHKでオリバー・ストーン監督の「原爆投下」を放映していました。
これも、知ってることなのでお伝えしておきますが、オリバー・ストーンはアメリカの右翼保守の代弁者です。

彼の主張は以下のとおりです。
1.日本は原爆投下をしなくても降伏した。
(これは、日本の右翼保守が数十年前から主張していることです。)
2.アメリカの軍人は原爆投下は不要だと考えていた。
(マンハッタン計画はアメリカの国家的軍事行為です。)
3.日本の降伏はソビエトの参戦がキッカケだ。
(原爆投下があって、その上でソビエト参戦があったので降伏したのです。原爆の投下がなかったら、そうはことが運ばなかったでしょう。)
4.すべての責任はトルーマンにある。
(トルーマンは朝鮮戦争で、マッカーサーから中国への原爆投下を要求され、それを断って彼を解任したのです。)

私からするとオリバー・ストーンを使ってまで、軍人を擁護したい、というふうにしか見えません。

A級戦犯合祀の事情

私は立場上、産経新聞を購読し、BSフジのプライム・ニュースも時々見るようにしています。
桜井よしこ氏のインタビューのような中身のないものは別として、時々は参考になるものもあります。
昨日のプライム・ニュースでは秦郁彦氏がA級戦犯合祀の事情を説明されていました。
氏のことだから全てが事実かは疑わしいのだけれど、以下のような説明をされてました。

A級戦犯合祀を行ったのは松平春獄の孫の松平永芳氏で、彼は天皇側、遺族会への相談もなく、宮司になってからたった二か月で、確信犯的に合祀を行ったそうです。
A級戦犯7人のうち、5人は陸軍大将で一人は陸軍中将です。
残り一人はいうまでもなく広田弘毅氏です。
合祀は、東条英機氏の遺言だったそうです。
松平氏は皇国史観で有名な平泉澄氏の弟子で、終戦時海軍少佐、陸上自衛隊、防衛研修所戦史室勤務のなどの経歴です。

秦氏によれば、靖国神社は民間施設だから合祀に関しては、公的には何も干渉できないそうです。

ポツダム宣言第10条

これも同じ番組で日暮吉延氏が言っていたことです。

ポツダム宣言第10条で「...我々の国の捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。...」とあるのだから、東京裁判には法的正当性の根拠がある、また、サンフランシスコ平和条約第11条で「...諸処罰を受け入れる。...」とあるのだから東京裁判の結果を日本政府は受け入れる法的義務がある、といった内容です。

つまりポツダム宣言を受け入れ、サンフランシスコ平和条約を締結した結果、A級戦犯の処罰に法的正当性が生じたのだから、いまさらいちゃもん付けても始まらないでしょう、といったところです。

また、ポツダム宣言の共同声明の国はアメリカ、イギリス、中華民国なのですが、否定派(捏造派)はここでもソ連が含まれていない理由を「ソ連は日本と中立条約を結び、まだ、対日戦には参加していなかったので」と捏造し、会談の途中で原爆の実験成功の報がトルーマンにもたらされ、それでソ連から中華民国に国名が変えられたことには言及しません。

一言でいうと、軍事史の捏造は旧日本軍派の抵抗運動みたいなものです。

原爆投下不要論

原爆を投下するまで日本を降伏させるな――トルーマンとバーンズの陰謀

これが出所です。超有名な傾向出版社、平たく言えば右翼出版社の草思社の2006年の出版です。
話は全くの捏造、出鱈目でも一冊の本の中では整合性が取れている、といういつもの手です。
私は右翼系の機関紙から、数十年前から知ってます。

ついでに秦氏は、次のようなことも言ってました。

「陛下が本土決戦に反対されるなら、まず阿南陸相が陛下の前で腹を切り、それでも反対されるなら次々に、陛下が賛成されるまで腹を切り続ければいい。」と陸軍(?)は言っていたそうです。
そんな状態では、とても原爆投下なしにご聖断に持ち込むことはできなかったでしょう。

国家基本問題研究所

先日の麻生発言で、一緒に桜井よしこ氏と西村慎吾氏が映っていたので調べてみたらわかりました。
「国家基本問題研究所」という右翼のシンクタンクまがいのものがあって、両外人はその関係者でした。

正論11月号 瀬島龍三はソ連の「協力者(スリーパー)」だった

これは納得の行く話です。
第2のゾルゲ事件ですね。
瀬島氏が日本「南京」学会の会長だったことは周知で、防衛省のOBたちも少なからず会員でした。
秦郁彦氏、森松俊夫氏、原剛氏も一員です。
この学会のは私が歴史捏造学会と呼んでいたものですが、日中関係が悪化して喜ぶのはソビエト、ロシアだけです。
アメリカからはブッシュが名指しで「中国と日本が仲が悪くて困るのはアメリカだ。」と言われたのですから。
なんたる制服組主流派の愚策、野田佳彦の愚策。

瀬島氏に騙されていた制服組主流派と右翼言論人

瀬島龍三氏がソ連のスリーパーであったことは有名だったようです。
佐々氏の本でも鎌倉警視総監が「知らないほうがおかしいんで、みんな知ってますよ」と言ってたことになってます。
私が小平警察署の公安課のT氏に相談した時も「南京は違法行為には出ない」と言われたのも、彼らの実態を知っていた上でのことなのでしょう。
日本「南京」学会のメンバーがだれかは周知のことで、自分たちのあほさ加減を世間に公表しているようなものです。
誰も、まさかそれで政治が動くとは考えてはいなかったのでしょう。

インテリジェンスのない国家は亡びる

佐々氏は「インテリジェンスのない国家は亡びる」という本の中で「南京事件」についても言及しているので一言。

いろいろ否定派(捏造派)の基本的な誤情報が述べられているのは仕方のないことですが「軍を挙げて大規模な作戦を実行しないと、まったく不可能である。」と書かれてます。
これは、そのとおりで「全貌昭和60年3月号」の中の森松俊夫氏監修、阿羅健一氏(筆名、畠中秀夫氏)作成の栗原証言捏造記事でも「あれは作戦だった」と書かれています。
たった3日間で10万弱の捕虜を殺戮するのですから、軍を挙げての作戦が必要だったのでしょう。
65連隊だけでも約2万人の捕虜の殺戮(処分)なのですから。

積極的平和国家

積極的平和国家と言いながら、NHK経営委員には首相のとりまきの著名な南京大虐殺否定派の百田尚樹氏を起用。

ダブル・スタンダードではなく国際的なミエミエの二枚舌政策です。

NHKを使って国民には宣撫工作、日本陸軍と同じ国際的な恥さらし政策です。

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

銃弾の補充が利かなかった

私の父(栗原利一)の証言で重要なものの一つが、なぜ全体で10万弱、65連隊で約2万もの捕虜(大部分は投降兵)が生じたのかの理由を聞いたときの答えです。
「銃弾の補充が利かなかった。」、つまり蒋介石軍は南京城外、近郊に大規模な防御陣地を展開していたのですが、銃弾の補給路を断たれ、仕方なく投降したようです。
ここいらは「郷土部隊戦記」にも(銃弾が尽きて)「戦意を喪失し、武器を地面にたたきつける者などもいて」投降した、と書かれています。

これは大量の捕虜の出たもっとも納得のいく理由なのですが、否定派はこの「銃弾が尽きて」ということは一言も書いていません。
また、肯定派も「大量の捕虜の殺戮なのだから大虐殺だ」としか書いてません。

銃弾の補充が出来なくて敵兵の投降を許していたのでは戦闘は遂行できません。
これ以降は日本軍は、投降を許さず、捕虜を作らずに殺戮する作戦に変更します。
また、太平洋戦争ではアメリカ軍にまったく同じことをされ、降伏したくとも降伏できないまま殺戮されたそうです。

タリバン兵が銃弾が尽きても投降は許されないでしょうし、シリア内戦でも反乱軍兵士が銃弾が尽きても投降は許されないでしょう。

これらは戦争の裏側、戦争の真実だと思います。

アサヒグラフ昭和13年1月5日号

これはアサヒグラフ昭和13年1月5日号の写真です。
左下の大きな写真が幕府山の捕虜の一部の写真で、収容施設で第一日目に小火があり一時、一部の捕虜を外に出したときの写真です。
右下の写真は、幕府山の捕虜を武装解除して、収容施設に連行しているときの写真です。
右下の解説にあるように「敵の遺棄死体は八、九万」というのが大虐殺肯定派の遺棄死体数説の根拠です。

この記事等は1992年(平成4年)に発行された「南京大虐殺の研究」(執筆者、藤原彰氏、吉田裕氏、本多勝一氏、小野賢二氏、洞富雄氏、笠原十九司氏など、晩聲社)に記載されています。
私がこの本を読了したのは2007年(平成19年)6月4日です。

私が南京の勉強を始めたのは2006年(平成18年)に森松俊夫氏による資料破壊工作を受けたのが契機です。
「森松俊夫氏の二度目の犯罪 思考錯誤」にその顛末が書いてあります。

これはネットで肯定派の方にもお話したことですが、私の父が「南京」について話さなくなった理由の一つが、藤原彰氏のグループに話した時に「侵掠」に書かれている下関(シャーカン)での二千人斬首の話に接したからです。
私の父が収容所での小火や火災について全く知らなかったのは、一日目の二千人斬首に駆り出されていたからです。

10万と八、九万と7万

とりあえず、何人殺されたのかが一番の関心事だと思われますので、お伝えしておきます。
学者や肯定派の人たちは10万捕虜殺戮説です。当時の資料や本には10万と八、九万と7万という数字が出てきますが、同じ事実についての数字です。
10万は殺戮した捕虜全体の数で、「郷土部隊戦記」などに記載されています。
遺棄死体八、九万は前述のアサヒグラフなどに出てきます。
7万は前述のスケッチ帳などに記載された数字で、これには65連隊の13500も含まれています。

数字は違いますが、10万の捕虜を殺戮した時の公表された数字や、伝聞で語られた数字です。
日本政府や自由党、民主党が公的に認める事は不可能な事実です。

結局は占領時にチャールス・ウィロビーが服部卓四郎などに自衛隊を作らせたことが原因で、手の打ちようはありません。

南京陥落時の10万捕虜殺戮

父(栗原利一)のスケッチ帳の説明など

1.スケッチ帳の書かれた時期など
 栗原利一資料集サイト(以降は「資料集サイト」と称します)の軍隊手帳に記載のあるように、父は昭和13年9月10日の史河々畔の戦闘で右大腿部を盲貫銃創で負傷しています。
その後、第13師団第一野戦病院、広島陸軍病院、仙台陸軍病院と翌昭和14年2月22日に退院するまで約5カ月余りの入院生活を送っています。
ttp://www.kuriharariichi.com/gun_techo/techo3.html
当初のスケッチなどの資料はこの時期に書かれたものと思われます。

 資料集サイトのスケッチ帳は、スケッチ帳0003の上部に書かれているように、昭和36年4月10日ごろ飯田橋の警察病院で、盲貫銃創の弾の摘出手術を受ける際に清書したものなどです。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0020/0003.html
スケッチ帳0021の下部に「(召されて24年前を記す、右大腿部盲貫銃創弾を取る病院にて)、軽き身を重き任務の過去なれどつたなきペンで後に残さん、利一作」と自署で書かれたことが記されています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0021.html

2.全体の捕虜数と65連隊の捕虜数

 南京陥落時の全体の捕虜数は「郷土部隊戦記(1)」(昭和47年、福島民友新聞社、編集委員 阿部輝郎氏など)の102頁の項題に「…十万の投降兵」と書かれています。
また、「現代のドキュメント 侵掠」(1982年9月、小俣行男著、徳間書店)の「南京大虐殺」の項の20頁には「捕虜も全部で十万くらいいるらしい。」と書かれています。
 以上のことからすると当時の日本兵にとっては10万弱の捕虜(大半は投降兵)がいたことは周知のことだったようです。

 65連隊全体の捕虜数は「支那事変 郷土部隊写真史」(昭和13年6月、福島民報社)の八頁に、「…幕府山砲台を占領し、残敵約2万の捕虜を得た。」と書かれています。

3.65連隊の捕虜殺戮現場

 65連隊の捕虜殺戮現場は「週刊金曜日1993.12.10号」と「週刊金曜日1994.2.4号」の小野賢二氏の論文に詳しく書かれています。
一か所は魚雷営であり、15日に近くの下関(シャーカン)という大桟橋で二千人が斬首されています。
この斬首については「現代のドキュメント 侵掠」(1982年9月、小俣行男著、徳間書店)の20頁に書かれています。
16日、17日の二日間、魚雷営で5千人を殺戮しています。
 もう一か所は幕府山の捕虜13500人を大湾子(小野賢二氏による)で殺戮しています。
合計で約2万人となり、「郷土部隊写真史」の記述とも一致します。
 幕府山の捕虜殺戮に関しては、資料集サイトのスケッチ帳0028の上部に「下の廠舎で我が部隊において13500人を三日間飼った」とあります。
同頁の下部の説明に「我が部隊は13500であったが…」とあります。
また、同頁の下部の図の中央にも「13500」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
父は幕府山の捕虜は13500人と考えていたようです。

4.アサヒグラフ1938年1月5日号

 南京陥落時の捕虜殺戮数の全体はスケッチ帳0074の下部の説明に「南京攻略にあたり敵の遺棄死体は八、九萬…」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0074.html
同一の写真がスケッチ帳0072、スケッチ帳0076にもあります。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0072.html
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0076.html
この写真がアサヒグラフ1938年1月5日号の写真であることは1992年(平成4年)に発行された「南京大虐殺の研究」(執筆者、藤原彰氏、吉田裕氏、本多勝一氏、小野賢二氏、洞富雄氏、笠原十九司氏など、晩聲社)の137頁上部に同一の写真が掲載されていることから分かります。
同写真の説明には「両角部隊が捕虜にした…中国兵の一部」と書かれています。
洞富雄氏の「決定版【南京大虐殺】(1982年、徳間書店」にも同じ写真が掲載されています。
 この写真は幕府山の捕虜を収容した施設で15日に小火があり、その時に捕虜の一部を外に出した際に撮られたものです。
スケッチ帳0028上部の右下に「藁屋根の捕りょ収容所」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0076.html

 投降兵「10万」、スケッチ帳0028の下部の説明の「…他部隊合わせて70000余…」、スケッチ帳0074の「…敵の遺棄死体は八、九萬…」の数字は前述の「決定版【南京大虐殺】」に同じ意味合いで何度も記載されています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0074.html
すなわち投降兵(捕虜)全体は10万であり、幕府山の捕虜と同じように殺戮されたのは7万であり、陸軍の遺棄死体数の公表は8、9万であったと言うことです。

5.65連隊の二か所の捕虜殺戮と父(栗原利一)の体験

 資料集サイトの軍隊手帳に「(昭和12年)十二月十五日ヨリ十二月十九日?南京附近ノ警備」と書かれてます。
南京陥落直後の10万弱の捕虜殺戮はこの期間に行われています。
15日から17日までの3日間に殺戮が行われ、18日、19日はその死体処理に費やされたそうです。
ttp://www.kuriharariichi.com/gun_techo/techo2.html
父は65連隊の二か所の捕虜殺戮に直接かかわっていたようです。
 一か所目は下関(シャーカン)での二千人斬首で、私が小学校3年生の5月下旬に関東管区警察学校4号官舎の8畳間で最初に聞かされた話です。
父が15日の小火について一切知らなかったのは、下関(シャーカン)での二千人斬首に駆り出されていたからです。
 二か所目は小野氏は大湾子と論じていて、幕府山の捕虜13500人が殺戮された場所です。
父はこの捕虜の護送に駆り出されています。

6.近年の父の証言

 イ.中国兵が大量に投降した理由は「銃弾の補充が利かなかった」からだそうです。
これは秦郁彦氏の「南京事件」などに書いてあるように、蒋介石軍は南京城外に大規模な防衛陣地を築いていて、日本軍がその補給路を分断したために銃弾が尽きて仕方なく投降して来たようです。
 (銃弾が尽きて)投降した中国兵の様子は「郷土部隊戦記(1)」に詳しく書かれています。
 スケッチ帳0027の上部の図の説明にも「(銃弾が尽きて)白旗を掲げて投降する支那兵」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0027.html

 ロ.幕府山の捕虜の殺戮現場は幕府山のふもとの100m四方の凹地だそうです。
(一方は揚子江に面しています。スケッチ帳0028の下部の図が、その見取り図です)
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
まわりに鉄条網はありません(父によると「そんなことしてあったら捕虜の感づかれてしまう」とのことでした)。
「昼前に、事前に探しておいた場所」だそうです。
(これは2007年にテレビの取材で小野賢二氏が来られたときの説明や、「週刊金曜日」の同氏の論文の記述とも重なりあいます。
100m四方の凹地の一方が揚子江で、その両端から信号弾を打ち上げ、それを掃射角として三方の傾斜地から重機関銃8台で機銃掃射が行われたようです。)

 ハ.加害意思に関しては「なにかあったら一斉に射撃しろ」との命令は事前に出ていたようです。
父は機関銃隊ではないので(65連隊、第二中隊)銃は撃っていません。

 ニ.スケッチ帳0028の下図の説明の「柳のえだをかぎにして」の意味は、父に確認したところ、柳の枝の幹に近い太い部分の小枝を一定程度残し、トの字を下に伸ばした形状にして、の意味のようです。
木の枝をこのようにして作業することは馬小屋の藁を掻い出したりするのによく行われたそうです。
 このような形状の枝を二人で一本づつ持ち、枝を死体の脇の下にいれ二人一組で引きずって河に投入したそうです。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html

 ホ.本多氏に対する証言では女性や子供は殺害してないようなことでしたが、実際には幕府山の捕虜には家族持ちの捕虜が200人ほどいたため死体に中にはそういった遺体もあったようです。
(実際の戦闘では日本軍の進軍に合わせて一般の中国人、特に老人や婦女子は日本軍の進路から外れた山中などに避難していたようです。
これはアサヒグラフの写真からも推測されることです。)
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0076.html
                                 

NNNドキュメント(南京事件)

南京事件について日本テレビで放送していたのでお知らせします。

65連隊の1万8千人殺戮などについての内容です。
幕府山の捕虜1万3千5百人について長年、調査をされてきた小野賢二氏の活動が中心です。
日本のメディアで流せるのはこれが限界でしょう。
全体では10万の捕虜の殺害があったのですが、日本政府がこの事実を認めることは永久にできないでしょう。
(たった7日間で憲法を作ったのも占領軍なら、10万人の捕虜殺戮を行った旧日本軍を使って自衛隊を作ったのも占領軍なので、この間の矛盾は当分解消されないでしょう)

ただ、10万捕虜殺戮を中国政府が愛国教育に使っても日本政府は文句を言える立場にはないでしょう。

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