昨日のエントリーで、
『「果たしてこれが皇軍か」と嘆いたのは、確か外務省の石射猪太郎だったかな?(ちょっとうろ覚え) 』
と書きましたが、その部分が書かれた本を本棚から探し出してきましたので、メモ代わりに引用しておきたいと思います。
今回引用するのは、 前坂俊之著「太平洋戦争と新聞」という本で、以前から拙ブログ左側のおすすめの本のところにも掲載しているものです。
P.332~
当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、
「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。
嗚呼、之が皇軍か」
と記述している。
※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332~P333 (1998年)

ちなみに、この外交官・石射猪太郎氏(右写真)は、盧溝橋事件では不拡大方針を強く主張して懸命に事変拡大阻止に動いた人です。
この時代の事を調べていると、石射猪太郎と広田弘毅とのやりとりなどもよく出てきます。 (広田弘毅は、文官では唯一のA級戦犯)
もうひとつ、この本の中から当時の軍紀退廃を嘆いた軍人の話を引用しておきます。
その軍人とは、杉本五郎中佐。
P.332~
当時の軍人の座右の書であった『大義』(1938年5月刊)の著者・杉本五郎中佐は37年9月に内蒙古で戦死したが、その『大義』の中で伏字となっている部分がある。
「現在、大陸に居る皇軍は侵略軍であって皇軍ではない。
暴行、掠奪、強姦などほしいままにしているような軍隊は断じて皇軍ではない。
・・・・・・・・・ただちに大陸より軍を撤退せよ。」
※元資料:洞富雄『南京事件』 新人物往来社 P.188(1972年)

杉本五郎中佐が批判している支那派遣軍の実態も、昨日紹介した親泊朝省の批判とほぼ同様と捉えられるかと思います。
杉本五郎中佐は1937年9月に戦死しているので、同年12月の南京陥落時には生きていないわけですが、大陸での日本軍の様子を示す資料として参考になるかと思います。
(右写真は、 杉本五郎中佐の遺言本『大義』。 画像クリックで、『大義』を紹介しているサイトにとびます)
他にも、当時の関係者が、支那事変、特に南京に於ける日本軍の軍紀の乱れを認識していたという資料はいろいろあるようです。
その中には、松井石根司令官が解任された理由のひとつに、この軍紀の乱れがあった事を示唆す文書もあります。(下記引用部分は、読みやすくするため少し編集しました)
(略)
松井大将の召還理由として半官報は次のごとく報道し居れり
(イ)松井大将は、多弁を弄し外国側を刺激せること
(ロ)南京その他占領地帯における軍紀廃頽は外国新聞に報道せられ、外国の世論不利に赴けること
(ハ)軍事行動の不進捗

(クリックで拡大)
「日本ノ対支行動行詰ニ関スル特別通信ノ件」1938.3.22
アジア歴史資料センター:B05014001200
南京事件については、ネット上だけでも様々な説や意見が飛び交っていて、事件概要をつかむのさえ少々努力を要すると思います。それゆえ安易な結論や説に飛びついてしまいがちだと思いますが、そこはぜひ冷静になって、理論的に考えていくのがよろしいかと。
また、ここで示させていただいたように、当時からこの事件(というか支那派遣軍の軍紀退廃)を認識していた日本人による資料もあるわけですから、せめて「日本人がそんなことをするはずがない」説とか、「南京虐殺は東京裁判で原爆の罪を相殺するためにアメリカが捏造した」説ってちょっと怪しいかもね、ぐらいには思っていただけるかなぁ・・・と。
■関連過去エントリー
・南京事件を批判して自決した軍人がいた
・支那事変勃発から一年半で732名も
・支那事変時の軍紀の乱れの特徴
■参考リンク
・日本近代史と戦争を研究する 中支那方面軍司令官・松井石根の解任
・『大 義』 杉本五郎
