最近、慰安婦問題や南京虐殺についていろいろ調べていたら、自分の頭の中をも疑うことだらけとなり、激しく目眩がしてきて頭がクラクラしているj.seagullでございます。
これらの件については、目眩がとまって頭の中が整理できたら書いてみるつもりでおりますが、それまでは別の話題でエントリーしていきます。・・・というわけで、再び特攻関係のお話です。
以前にも拙ブログにて紹介させていただいた、元特攻隊員・永末千里氏のWEBサイト「蒼空の果てに」の中に、「神風特攻隊員の精神基盤について」というページがあります。

『海軍特攻隊の想い出「蒼空の果てに」』
このページの存在にはつい最近気づいたのですが、ここには、今まで私が特攻のエントリーを書きながら、また、いただいたコメント等を読みながら思い描いていた特攻隊員の心情が、末永氏によってわかりやすく整理されて書かれていました。
大変失礼とは思いますが、一部を引用させていただきながら、私が感じたことなどを書いておきたいと思います。
元の文章が長めですので、私のエントリーも2回に分けますが、お時間のある方はぜひ永末氏のサイトで全文を読んでみて下さい。
■特攻隊の編成
南方戦線における海戦や航空戦での我が方の損害は、断片的なうわさ話によってうすうすは承知していました。また、フィリピン方面における「神風特別攻撃隊」の活躍やその戦果は、大々的に発表されていました。しかし、それは一部の志願者による特別な行為であって他人事としか考えていなかったのです。だから、自分自身が「体当たり攻撃」を実施する立場にたたされるとは夢にも思っていませんでした。
ところが、航空艦隊参謀の説明によれば、全保有機で「特別攻撃隊」を編成するというのです。これは志願者を募るのではなくて、飛行隊をそのまま「特攻隊」に編成替えして「体当たり攻撃」を実施するということです。それなら、もう逃げも隠れもできない瀬戸際にたたされたことになります。
航空艦隊参謀から、「諸君が1機で1艦を沈める体当たり攻撃以外に方法がない」と、言われると、「よーし、やるぞー」と、いう気持ちになります。しかしその反面、「まだ死にたくない、他にも何らかの方法があるのではないのか……」との思いが交差します。このように、精神的な動揺をどうすることもできませんでした。
(中略)
当時の特攻隊員は、志願によるものではありません。今まで教務飛行を担当していた、飛行隊を「特別攻撃隊」に切り替えるというのです。ここに至って、初めて死を自分自身のものとして考えざるを得なくなったのです。
いくら危険の比率が高くても、普通の出撃であれば万が一にも生還の可能性が残されています。だから、「俺は生還できる」「俺に弾は当たらない」と信じることで、不安を克服することができたのです。
ところが、必死の「体当たり攻撃」ではこの考え方は通用しません。今まで心の片隅で恐れていながら、極力考えないようにしていた「死」を現実のものとして解決する必要に迫られたのです。
全てを調べたわけではありませんが、本心から「志願」して特攻隊員となったケースは、やはりかなり少なそうですね。この部隊の場合も、そのまま丸ごと「特攻隊」になったわけですから。
■特攻隊員の死に対する考え方
「特攻隊員」を命じられた場合、覚悟が決まるというか、決心がつくというのか、死に対する気持ちの整理ができるのに、2~3日かかるのが普通です。中には1週間程度も悩み続ける者もいます。そして、1週間が過ぎても、なお決心がつかなければ脱落するしかないのです。
では、特攻隊員は如何にして、死に対する自分の気持を整理し覚悟を決めたのでしょうか。
以前に紹介した、「語られざる特攻基地・串良―生還した「特攻」隊員の告白」という本では、体調不良を理由に翌日の出撃を辞退した隊員の話が出てきますが、これも極めてまれなケースのようでした。著者の桑原氏の場合は、父を亡くし母と姉が必死に働いて幼い兄弟を養っていたという事情もあって、出撃・離陸するまで気持ちの整理ができなかったようです。
さて、末永氏は、己の死を覚悟するための手段として「宗教」「国家神道の教え」「運命として諦観する」の3つを挙げて語られています・・・。
宗教
当時の年齢や人生経験から、信心といっても程度が知れています。それに比較して解決すべき問題が、あまりにも大き過ぎたのです。だから、宗教によって死を肯定する心境までには至りませんでした。
国家神道の教え
次に「悠久の大義に生きる」という国家神道の教えです。当時の精神教育は、この一点に集約されていました。だが、前述の宗教と同じように、真にこれを理解し、これで自分の死を納得することは出来ませんでした。
(中略)
人間はどうせ一度は死ぬのです。それなら多少とも、後世に名を遺したいという見栄があります。そして、軍神や靖国神社は生前に想定できる唯一の死後の姿でした。 地獄や極楽など、単なる幻想の世界ではなかったのです。
立派に戦って戦死すれば、靖国神社に軍神として祀られることは約束された現実でした。しかし、初めからそれを目的として考えるのは、神に対する冒涜だと思います。私たちは、国家神道を観念的には理解していましたが、それは、戦死後の姿を想定する手段としてであって、死を解決するには、別の何かを求めざるを得なかったのです。
運命として諦観する
次に運命として諦観する方法があります。確かに人の運命には予測できない面があります。それは、過去の戦闘や飛行機事故などの例で、生死は紙一重であることを痛感していました。だから、これに運命的なものを感じていたとしても不思議ではありません。
だが、これは結果として云えることで、運命そのもで死を解決するのは、単に諦らめの理論です。諦らめ切れないから悩むのです。だから、これが死を解決の手段にはなりませんでした。要は理屈で解決するのでなく、感情的に納得できる何かを求めていたのです。
60年前とは言っても、そこはやはり二十歳前の若者です。宗教観や教育では自分の死を納得できなかったのでしょうね。
では、なにをもって自分の死を納得したのか・・・。本能である生存欲求を断ち切り、自分の死を納得するためのもの・・・それは、やはり「家族を守る」気持ちだったようです。
私が死を意識して、真っ先に考えたことは、最も身近な者のことでした。即ち、両親や姉など肉親のことでした。自分が犠牲になることで、国家が存続し両親や姉達が無事に暮らす事ができるのであればという、切羽詰まった考え方でこの問題に対応したのです。
恐らく、 私以外の者の考え方も大同小異であったと思います。この問題を解決するには、肉親に対する深い愛情があったと信じています。年齢によってはその対象者が妻子であり、また約束を交わした最愛の女性であった者もいたに違いありません。
この肉親に対する愛情が、わが身を犠牲にして顧みない、重大な決意を可能にしたのです。また立場を変えて、親の側からこれをみるとき、親もまた複雑な思いに駆られていたに違いありません。
『親想う 心に勝る 親心
今日のおとずれ 何と聞くらむ』
吉田松陰の辞世を、現実に体験することになったのです。いかに国のためとは云っても、わが子の無事を願わない親はいません。お互いの愛情と信頼が「特攻」という常軌を逸した行動の原動力になったとすれば真に非情です。
次回に続きます。
