たいそうなエントリータイトルを付けてしまいましたが、別に決定的証拠があるとか、そういうお話ではありません。議論が尽きないこの問題をどのように考え、捉えたらよいかというテーマでの愚考です。
どちらの問題についても、私は本を2、3冊読んだ程度の知識しかなく、まさに初心者にも満たないレベルです。もしも論戦を挑まれたら、きっと私はあっという間に論破されます(笑)
前置きはさておき、いつもコメントをくださるhaloさんが、先日、とてもためになるお話を書いてくださいました。
一部引用させていただきます。(haloさん、ゴメンナサイ)
以前、私は知合いに「解決しない状態や、わからないという状態に、慣れろ」といわれたことがあります。(中略)すぐ結論に飛びつくのをやめて、試行錯誤を必要とするケースもある、というような意味でした。
人間なら(というか私は)、もやもやするグレー領域を脱出して、白黒はっきりさせたい願望があると思うんですけど、そういうとき、自分が共感できる主張を何かで見つけるとそれなりの満足感が得られるので、自分でよく調べもせずにそれに傾倒してしまいがちです。でもそれも、結果ありきの考え方なのかな?と思いました。
歴史の問題というのは、大変に複雑であり、その事実にたどり着くのは大変な作業です。それゆえに安易な結論に飛びつくのは避けるべきだと思っています。
過去エントリー「元日本兵 伊藤桂一氏が記した慰安婦 -1」でも書きましたが、「なかった」と言い切っている人に対しては、「全てを見たわけでもないのに、なんでそこまで言い切れるん だろ~?」というのが以前から感じている私の素朴な疑問です。
「あった」という説がそれまで主流だったこれらの問題を、「なかった派」に転向させるためには、それまで「あったとされる証拠や証言」を、論理的に否定しなければならないと思います。でも、冷静にいろいろな否定説を読んでみても、納得できる論説に私はまだ出会ったことがありません。
例えば、南京虐殺否定派の「当時はどこも報道していなかった」という主張がありますが、残念ながら知らなかったのは日本の国民だけで、世界中で報道されていたという事実があり、しかも、昭和9年(1934)の内務省警保局長からの「外国出版物ノ取締ニ関スル件」という通達によって、数多くの南京事件に関連した外国出版物の発禁処分がなされたという証拠が、1938年1月の「出版警察報 第111号」に残っているという話もあります。(※「太平洋戦争と新聞」 P.333)
同時に、このことによって、「当時はまだ検閲がなかったのだから、報道がなかったということは、そんな事件など存在しなかったのだ」という主張も、成り立たないことが明白となります。
また、いくらアイリス・チャンの本がでたらめでも、「証拠写真」として通用するものは1枚もなかったとしても、それらの検証は、本質的には事件の存否には因果関係がなく、数多くの証言を覆すことにはならないと思います。
中には、「証言は証拠にならない。私はあなたに100万円貸しました。これは証拠になりますか?え?」などという無茶な書き込みをネットで見ることがありますが、、「証言は証拠にならない」のなら、警察の犯罪捜査なんてなりたちませんってば。
問題はその信憑性とか、多角的に検証して誤謬がないかどうかを判断すれば、十分に証拠になると思います。ただし、人間の記憶は曖昧なものですし、被害の証言は時として共感を得たいがために大げさになりがちな傾向(ドラマタイジング・イフェクト)がありますから、ある手度は割り引いく必要もあると思います。
では、この複雑で厄介な問題について、結論を急ぐことなく考えていくのには、どのようにしたらよいのか?
それを考える上で、大変参考になる本に最近出会いましたので、次回、引用してご紹介したいと思います。
おまけ:
結論を急いじゃった人の例(動画です。8分過ぎあたりから南京問題答弁)
動画はめんどくさい、という方はこちらの議事録で「南京」「慰安婦」でページ内検索を。
このエントリーの続き。
↓
従軍慰安婦・南京虐殺がなかったと思っている人へ-2
■参考書籍
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