2週間前に「硫黄島決戦と竹槍事件」という記事を書きましたが、背景が少しわかりにくかったところもあったと思いますので、補足しておきたいと思います。前回と同様、「太平洋戦争と新聞」という本を参考にします。
また、下記のWikipediaも参考になるかと思います。
・竹槍事件
・新名丈夫
P.406~
新名は海軍記者となって以来半年間にわたって主力艦隊に乗り組み、戦況を自分の目で確かめていた。戦況は敗退に次ぐ敗退であり、陸海軍が対立し、飛行機生産のためのジュラルミン30万トンの大部分を陸軍が本土決戦用に押さえて海軍用に出さないことなど、内幕を熟知していた。
マーシャル陥落の発表を大本営が20日間もためらって大騒動を演じているのを見た新名記者は、一大プレスキャンペーンを上申した。
「日本の破滅が目前に迫っているのに、国民は陸海軍の醜い相克を知りません。今こそ言論機関が立ち上がるほかありません」
と、吉岡文六編集局長に上申書を出した。
「よし、なんとかして国民に知らせよう」と吉岡局長は社外の大物に書かせようと、元中国駐箚大使・本多熊太郎に交渉したが「検閲があっては書けない」と断ってきた。編集会議の結果、新名が指名された。
そして、「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た。竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」の見出しで始まる記事が掲載されたというわけです。
上述の通り、陸軍の竹槍主義、本土決戦・一億玉砕の精神を批判した毎日新聞のこの記事は、新名記者の上申がきっかけですが、社としてそれを後押ししたようです。
ところで、戦時中の検閲の厳しさはよく知られていますが、なぜ、軍部を批判する記事が書けたのでしょうか?
P.407~
東条首相の「非常時宣言」の発表されたその日、吉岡局長はすぐ書くように命じた。当時、記事は検閲を受けていたが、海軍担当記者は海軍省の検閲だけでよく、キャップが書くものは無検閲でよい紳士協定があり、この特典を利用したのであった。
新名記者は海軍担当記者のキャップだったので、書けば間違いなく陸軍が激怒するとわかっている記事を書ける立場にいたということのようです。しかし、相手を怒らせるとわかっている記事を書くのには相当の勇気が必要だったのでしょう。
新名記者は「書けば東条から懲罰招集を食うかも知れない。社もつぶされるかも知れない。殺されるかも知れぬ」と、悲壮な覚悟で執筆したが、そのとおりの、ハチの巣をつついたような騒ぎとなったのである。
新名は責任を感じ進退伺いを出したが、吉岡局長は突っ返し、逆に金一封の特賞を出した。
3月1日に吉岡局長、加茂勝雄編集局次長兼整理部長は責任を取って辞任した。しかし東条はおさまらない。情報局次長村田五郎を呼びつけて「竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日(新聞)を廃刊にしろ」と命令した。・・・
この後の顛末は、「硫黄島決戦と竹槍事件」で書いたとおりです。
陸軍と海軍の不仲は有名ですが、海軍記者だった新名丈夫を海軍が援護したのも、縁があったからだけではなく、その主張が正しいと思ったからなのかもしれません。
しかし、海軍が新名記者を援護しただけならよかったのですが、このとばっちりで、つじつま合わせに突然徴兵され、激戦地硫黄島に送られ戦死した30代後半の250名の兵士としては、こんな理不尽な話はありませんね・・・。
この話は、2.26事件以降の軍閥と真実を伝えようとするジャーナリストの戦いを描いた1970年の東宝映画「激動の昭和史 軍閥」にも出てくるそうです。新名丈夫記者の役は加山雄三のようです。
(私はこの映画は見ていません・・・というか、下記のDVDは今月末発売ですね)
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