今年の2月に、「日米戦争と戦後日本」という本から、私が大変感銘を受けた箇所を引用紹介するエントリーを書きましたが、この本の著者である現・防衛大学校校長の五百旗頭真氏が、今週日曜日の産経新聞「正論」で、硫黄島の戦闘がアメリカに与えた衝撃と日本が得たものについて語っておられました。
戦況が悪化するにつれ高まる日本軍の必死の抵抗が、アメリカの日本本土決戦計画を撤回させたこと、これが戦後の日本にとってどれだけ大きな意味があったかを、私はこの「日米戦争と戦後日本」で知りました。そのことを一人でも多くの人に知って欲しくてエントリーを書いたのですが、最近になって、拙ブログのリピーターになった方もいらっしゃるようですので、この機会に改めて五百旗頭真氏の「正論」を引用させていただこうと思います。
【正論】防衛大学校長・五百旗頭真 栗林中将は「重きつとめ」を果し得た
(キャッシュはこちら)
■悲壮な抗戦で得たもの
予想を超える硫黄島の犠牲は米国内で広く報道され、国民に衝撃を与え怒りを呼び起こした。わが政府と軍はどういう戦争をしているのか。米軍部はガダルカナルで22対1であった日米死傷者比率が、硫黄島で1対1となったことに衝撃を受けていた。火力と物量ではますます圧倒しているのに、日本本土に近づくにつれ、日本側の抵抗は熾烈(しれつ)となり、死に行く日本兵は米兵を地獄へ1人ずつ道連れにする形をとり始めた。本土決戦はペイする戦争でありうるのか。
4月1日に始まった沖縄戦も、1カ月の作戦予定が3カ月に及ぶ苦戦となった。この時期、米政府内には「無条件降伏=本土決戦を通しての完全勝利」の方式への修正が始まる。5月末、グルー国務次官が天皇制の容認を含む穏当な対日条件を声明して、日本を降伏へ誘導する提案を行った。それに対し、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官は大筋の賛同を与えた。時期は先送りされたが、それが連合国によるポツダム宣言へと展開する。
栗林中将の死闘は根深いところで動き始めた。米国側が、硫黄島・沖縄に続く本土決戦に疑念を呈し始めた。母や妻の声を尊重する民主主義社会は犠牲者数に敏感である。ベトナム戦争やイラク戦争の悲惨を、米国政府は日本本土の戦いについてはあらかじめ硫黄島で告げられたといってよい。無条件降伏の方式を事実上撤回し、穏当な条件を記したポツダム宣言が発せられた。本土決戦回避を米国の国益が望むに至ったのである。
鈴木貫太郎内閣が原爆投下とソ連参戦をうけ、聖断という非常手段によりポツダム宣言を受諾した。これにより栗林らの苦闘がよみがえった。「重きつとめを果し得で」と栗林は嘆じた。けれどもその悲壮な抗戦が敵の本土侵攻を1日でも遅らせるどころか、本土決戦をなくし、故郷の家族が平和を得て、復興の日を迎える政府決定の基盤を醸成したのである。
(いおきべ まこと) (2007/06/10 05:01)
長期戦・持久戦は、厭戦気分で兵士達の士気は下がるのが一般的なのかもしれません。中国戦線では、その厭戦気分からか軍紀は乱れ、それが東条英機の「戦陣訓」発布につながったともいわれています。
しかし、いよいよ日本本土に危機がせまったときの日本軍は、厭戦気分どころか、敵にとっては鬼気迫るものを感じさせ、それがアメリカの日本本土決戦計画を再考させたのです。

特攻攻撃は米兵にとって大変な脅威となり、精神的な過労で休養が必要と診断された者の数も多かったそうです。
写真に写るその表情から、特攻機に対する恐怖心がうかがえます。
(1944/12/18 フィリピン・ミンドロ島方面)
(クリックで大きくなります)
結果的に、本土決戦が避けられたことで、どれだけ多くの日本人が救われたことか・・・。本土決戦のあったドイツ・ポーランドは、日本よりも国土が狭いのに、戦死者数は日本の倍の700万人になります。この事実を、戦後の日本人はしっかりと認識しておくべきだと思います。(もちろん、決戦の場となってしまった沖縄の人々への哀悼の念は忘れてはなりませんが。)

(「日本の分割統治計画」Wikipediaより)
もちろん、日本本土決戦が回避された理由は他にもありますが、命をかけて戦った方達がアメリカに与えた影響は大きなものがありました。
それゆえに、日本の未来をまかされた私たちは、彼らに感謝しなければならないと思います。
詳しくは、下記の関連過去エントリーをぜひご覧ください。
■参考書籍
Amazonおすすめ度:




