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特攻隊員選抜の両論   

他のエントリーを挟んだため、少し間が開いてしまいましたが、今回も、「語られざる特攻基地・串良―生還した「特攻」隊員の告白」から引用紹介したいと思います。
photo
特攻隊員は「志願」だったか「命令」だったか、という話があり、それについて元特攻隊員の桑原敬一氏が考察している部分から引用します。


P149~
特攻隊を編成するにあたって、その隊員の選抜が「志願」であったのか、「命令」によったのかは説の分かれるところである。じつは両論の真偽をめぐる議論など、私たち元隊員にとってはどうでもいいことである。なぜならば、初期の特攻はいざ知らず、末期特攻においては、それぞれの航空隊が、それぞれの方法によって選抜したといわれるその実態が、本質的にはとかく議論の余地のない命令そのものであったことに違いないからである。
(略)
いったい、自発性に基づく志願だったとする説の拠りどころは何か。

私見だが、まず第一にあげなければならないことは、元軍人の、かく戦ったという闘争本能がもたらす心情である。破れたりとはいえ、自らの意志で、国家、同胞のために堂々と戦った自尊心がある。これが他律的な命令であることを許さない。

次に生き残った者には程度の差こそあれ、特攻死した者に対する負い目がある。それを合理化する最上の方法は、隊員自らの意志による志願であることが最も望ましいことである。こうして負い目の大きさが賛辞に比例するように、、往ったものを勇者として称え、自発的な発露としての志願が作り上げられてしまう。
特に後者は、特攻に関係した上層部にとっては、格好な良心的責任回避の手段にされたと思う。

特攻隊員が「志願だった」とすれば、たしかに上層部は責任回避しやすくなりますね。

また、他の章で書かれていたことですが、元特攻隊員と、特攻死した隊員の御遺族が面会する機会が戦後いくつもあり、その度に、御遺族は「うちの息子(兄・弟)の最後の様子はどうでしたか?」と聞かれるそうです。その時に、元特攻隊員の人は、「彼は最後まで『死にたくない』と言っていました」とは、口が曲がっても言えないそうです。高齢となった御遺族には「彼は立派に笑顔で飛び立っていきました」としか・・。
当時の世間は戦争一色に包まれ、果敢に戦って死に往くものを賛美した。その多くは死を自らのものとして突きつめて理解することもないままに、極めて安易に口にする風潮にあった。
こんな時代感覚の中では、すべてが自らの意志で、男の心意気で、自らの生命と引き替えに国の安泰のために行動した、としてくれれば、これは上位者の意志を超えたものである。もちろん散ったものはどのような経緯があり、心情であったにせよ勇者であった。そこで死地に赴いたものの心情をよそに、その行為は最大級の賛辞を持って称えられることになる。

では、当時どのように賛美・賞賛したのか、時期は少し遡りますが、「特攻とは何か」から初期特攻時の様子を引用してみます。

4166605151
P.214~
「再燃した”軍神ブーム”」

(新聞報道を受けて)「機・人諸共敵艦に炸裂」と見出しに踊っているように、飛行機が爆弾を抱いたまま米空母に体当たりするという犠牲的な行為は日華事変中の軍国美談「肉弾三勇士」に似て国民の多くを震撼させ、たちまち感動と賞賛の嵐を呼び起こさせた。
(略)
鉄壁の守りと豪語した「絶対国防圏」の一画-サイパン-が破られ、敗亡への不安がひそかに人々の口にのぼりはじめた頃の画期的な戦果であったために、特攻戦士への賛辞は軍事的リアリズムを超えて一気に観念の世界に入り込んでしまったと言える。

「神風」という命名も元寇の役の”神風襲来”を頭においてのものであったから、蒙古軍の来攻を一陣の突風で吹き払ってくれた故事のように、特攻戦士たちは人知の及ばぬ力で戦いを勝利に導いてくれると甘い期待を抱いた。

現実では勝ち目がないのだが、観念の世界では勝利はありうるのである。その幻想は、一種の集団ヒステリー現象を巻き起こした。すなわち、軍報道部も一体となってこれをあおった「軍神」ブームである。

一例をあげれば、まっさきに公表された敷島隊員谷一飛曹の場合、故郷の京都市舞鶴市では、ラジオ放送での発表と同時に新聞記者、隣組、市内各町内会長、官公庁幹部、中学校教師、校長、同級生、陸海軍幹部、在郷軍人、青年団、一般市民などがつぎつぎと戦死者の自宅に押しよせ、谷の両親はその応対におわれて、長男の死を悲しむゆとりさえなかった。

その熱気の一端は、次の新聞報道でも知られよう。
谷の出生地は岐阜県揖斐郡西郡村(現・大野町)だが、同村長は「軍神」が村から誕生したとあって、まず生家を永久保存、ついで同郡の町村長会議を開き次のような大顕彰運動を決めた。

この「大顕彰運動」以降については長いので略しますが、ひとつだけあげれば「郡下各国民学校への神鷲の写真を掲げる」というのがありました。特攻死した谷一飛曹の遺影を学校に飾ったということです。
もう一つ引用しておきます。

朝日隊の上野敬一の場合は、10月14日付で全国紙に公表され、谷一家と同様に家族は狂熱の坩堝に放り込まれた。
(略)
翌日からは、各紙の新聞記者が押しかけてきた。隣町や町内会、官公庁や下関市長までもが駆けつけて偉勲を褒めそやしたことは、他の軍神一家の場合と同様である。特に上野敬一の出身である小学校、下関中学校関係者が熱心であった。

町内会ではその名誉を顕彰すべく鳥居を建てようという建議が出されて、武久町では新年までに完成させようと、大工たちを総動員して突貫工事が行われた。

「軍神上野敬一之生家」

の碑が立ち、上野家の玄関横に檜作りの立派な鳥居が建てられたのは昭和20年の正月のことである。ちょうど電車の停留所前であったから、道行く人も乗り降りする市民たちも、鳥居の前では立ち止まって合掌するのが常であった。

ここまで、特攻隊員を国民が持ち上げた以上、後から「志願ではなく命令だった」というのは受け入れづらかったのかも知れません。
ちなみに、この上野家の玄関横に立てられた鳥居は、戦争終結後、父親が取り壊してしまったそうです。その時「犬死にだった」「敬一を海軍なんかにやるんじゃなかった」とつぶやいていたと、妹さんが述解されているそうです。



■参考書籍
語られざる特攻基地・串良―生還した「特攻」隊員の告白 (文春文庫)語られざる特攻基地・串良―生還した「特攻」隊員の告白 (文春文庫)
桑原 敬一


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森 史朗


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コメント

回天では士官は命令で、他の方はいちおう志願という形と読みました。
でも、どこかの本で読んだのですが、募集するといいながら、応募しなければならない
雰囲気を作られた場合もあったそうですね。
日本に爆撃に飛び立つ敵国の飛行機や母艦が日本軍の防衛で阻止されました。
その中でも特攻は特別攻撃隊で攻撃となっていますが、必死(決死ではないところがつらい)の攻撃であり防衛でもあったと思っています。
そのおかげで助かった日本国民はいます。
助かった国民の中で私の父母も当然含まれ、私はこの国に無事生れ、今平穏無事に生活しています。
亡くなったことは残念だし、悲しいことです。
でも犬死という言葉は嫌いだし賛成できません。
特攻だけでなく戦死者全般が犬死といわれると悲しむと思います。
日本国民を守るために往くというという語句を遺書でも見るのですが、涙が出ます。
どなたの言葉だったか忘れたのですが、特攻にいくことで後の和平交渉にもかかわってくる。そして民族の誇りに・・・という部分が印象に残っています。
復員した親戚に聞きましたが、当時はとにかく国を守りたいの一念だったんだと話してくれました。
先人の犠牲の上で今の私たち日本国民の命があり、日本国民を守るためにわが身を犠牲にしても特攻に志願するという方が、いらっしゃったのは事実なので、たとえば回天の黒木少佐や仁科少佐ほかの皆様、必死作戦である特攻で亡くなった方には感謝の気持ち、民族の誇りだと思っています。
特攻戦死だけでなく、通常の戦死の方に対しても同じ気持ちだし、
法務死された方にも否定する気持ちは持っていません。
世界の人が靖国神社をどういおうと、日本国民として、日本民族として
生きている限り靖国神社に参拝して感謝の気持ちを捧げるつもりです。

最近思います

 遊就館、知覧、大和ミュージアム、鹿屋、それぞれに遺書や辞世の句を詠みました。
 立派な決意を感じますが、これを検閲があったからと言う人もいます。
 しかし、私は、この生き残った方の話も、遺書も、拙ブログでも伝えた「死にたくない」の愚痴も「お母さんさようなら」の電文も、出撃時の笑顔も全て本心だと思います。
 想像を絶する環境と時の流れの中で、「必死」が現実になろうとするときの気持ちをひとくくりで表すことは不可能だと思います。
 私は、特攻という作戦様式事態は賛美する物ではありませんが、命令であろうが、志願であろうが、家族のため(意味は色々あります)その住む祖国を残すための思いで散った方々がいるのは事実であり、今生きる私は、その方々に敬意と感謝の念を抱かずには居られません。
 勿論、特攻という作戦での戦死者のみならず、他の数々の作戦・戦闘で散った方々に対しても同様です。

コメントありがとうございます

>無病息災さん
誤解のないように先にお断りしておきますが、特攻隊員のみならず、戦死された方への私の感謝の気持ちは変わらないし、知れば知るほどそれは強くなっています。(今までのエントリーやコメント欄でもくり返し書いています)

しかし、エントリー内で書いた「犬死にだった」の言葉は、特攻で散華した上野敬一さんの父親のものです。息子を特攻作戦で失い、その悲しみに暮れるいとまもなく町中から軍神と持ちあげられても、結局は日本の敗北・・・日本中が失望する中での、肉親の「息子は犬死にだった」の言葉に対して、私は「その言葉は嫌いです」とは言えません。
(戦後生まれの人が「犬死にだ」というのなら、もちろん話は別ですが。)

>tonoさん
私も以前は見落としていたのですが、人間にとって「本心」が同時に複数存在することはあたりまえであって、その複数の「本心」が相反するものであると人間は「葛藤」するんですよね。(あたり前の話ですが)
だから、「家族のため、故郷のため、祖国のために死にに征く」という本心については、守ってもらった私たちは本当に感謝しなければならないと思います。
ただ、葛藤していたであろう別の本心-「まだ死にたくない」「何で俺たちが死ななきゃならないんだ」-にも、もっと多くの人に知られても良いと思います。そこに気がつかないと、日本人の特性上、一方向に走りすぎて、反省すべき点を見落とし、進化の機会を逸してしまうことになりかねないと、思うのです。

知覧を訪れたばかりの頃の私は、彼らの祖国を想う気持ちに感動するあまり、別の「本心」に気づくことがなかった・・・。だから下手すると特攻を勢い余って美化しかねない状態でした。美化してしまうと、戦争の悲惨さや反省すべき事を見落としてしまうおそれがあります。特攻自体が目的化してしまい、赤トンボまで駆り出すようなやり方には反省すべき点は多々あるはず。
立てこもり事件で勇敢な警官が殉職した時、その勇気を賞賛するだけでは、捜査態勢の不備などはいつまでも改善できず、同じ事が繰り返される可能性が残ってしまう・・・。それと同じかなと思います。

感謝の気持ちを持つ一方で、冷静になって反省すべきは反省する・・・それが歴史に学ぶということだと私は思います。

特攻と軍当局:

久しぶりにまた書き込みます。
終戦時満10歳半で、住んでいた地方は空襲なしで終戦になった私や周りの仲間たちは、特攻とはなんとなく勇ましいくらいな感じでいる内に終戦となったような感じです。
 それはともかく、「特攻」という戦法を軍当局が、少なくとも許容したという事実は動かせないでしょう。あたりまえの話で恐縮ですが。

話は少しずれてるかもしれませんが、今読んでいる本の中に印象に残る一節がありました。
私が今読んでいるのは、半藤一利編「昭和史探索(3)」であります。その中の陸軍大将・真崎甚三郎の手記の一文より。
「所謂日本精神は当時全く失われていた。」

まあ、一見何の変哲も無い一文かもしれませんが、何かここに集約された当時の軍上層部の内部における情景が見え隠れするのであります。
この人は、いわゆる皇道派のドンとして現代に語り継がれ、2・26事件でも青年将校達に度々担がれた人物。

あの時代、日本中が何か一つの観念に縛られていたのかもしれない、とも思います。一種のブームというのか、伝染というのか、当時の常識というのか、自分の回りを取り巻いている空気に逆らえない雰囲気って、日本にはあると思うんです。
これが敗戦に向かってどんどん過熱していったんではないかと思われます。つまり、命令という形式は取らなくても、本人が志願せざるを得ない状況に追い込んでしまうことができる。
これは今も変わらない、この国を取り巻いている実体の無い空気の怖さってやつかも。

軍上層部には、すでに責任を回避することに長けた役人気質が芽生えていた、そんな気がします。

コメントありがとうございます

>いわおさん
再度のコメントありがとうございます。
この記事で紹介したのは、初期特攻時の熱狂ぶりですが、菊水作戦の頃になると、もう当たり前のようになってしまったのでしょうね。
敗色濃厚なのにそれでも精神論ばかりが唱えられ、戦果よりも特攻そのものが目的化していた部隊もあったようですし、人の命を軽視していたという批判はあってしかるべきでしょうね。
いわおさんも学校で竹槍訓練などをなさったのでしょうか?

>くわっぱ上等兵さん
半藤一利氏の本はまだ読んだことがないのですが、いつか読まなければと思っていました。
紹介していただいた真崎甚三郎の手記の一文は、核心をついていると思います。私も、ある新聞記者が「あれは断じて皇軍ではない」と語ったという話を別の本で読みましたし。

くわっぱ上等兵さんの今回のコメントは、まさに今自分が気になっている部分でもあります。結構一方向に流されやすいとか、郵政選挙なんかもひょっとしたら、その日本の特性が出たのでは?と思ってみたり。
そのあたりを色々知りたいですね。

柳の木刀

管理人様 早速のコメント有難うございます。
 私が社会人になるまですごした北海道では、竿になるような竹は自生しないので、現在はどうか知りませんが、七夕飾りには柳の枝を使っていました。
 終戦直前の春に転入した田舎町の小学校では、その年の初夏に、近くの川原で柳の枝を切取って木刀に仕立て、しきりに素振りの訓練を始めました。そのいきさつは、
http://www.geocities.jp/yoshidaiwao/part4/Taketo_Yanagi.htm
の「竹と柳」なる拙文を御覧ください。

>いわおさん

「竹と柳 ― 終戦前後の思い出」、拝読させていただきました。
「軍国教師」の話もとても興味深かったです。朝、登校したときの挨拶が「お早ようございます」ではなく、「(戦争に)勝ちます」と言っていたというのは初めて知りました。そこまで徹底していたんですね・・・。
考えてみれば、いわおさんと同世代の私の父からは、このような話はいまだ聞いたことがありませんでした。また機会がありましたら、当時のお話などを聞かせてください。
他のエッセイもじっくり拝読させていただこうと思います。
ありがとうございました。

拙文をお読みいただき有難うございます:

 管理人様 拙文をお読みいただき、再度のコメント有難うございます。
あそこに書いたような軍国教師は、どの学校でも少数の特別な例であって、多くの教師は着実に毎日の授業をこなしていました。当時の教師の方々の名誉のため一言述べておきます。

>いわお さん

>あそこに書いたような軍国教師は、どの学校でも少数の特別な例であって、多くの教師は着実に毎日の授業をこなしていました。

これは大事なポイントですね。
人は、極端な例を見ると、あたかもみんな同様と捉えてしまいがちですからね。ありがとうございました。

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