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ある元特攻隊員の回想-3   

引き続き、「語られざる特攻基地・串良―生還した「特攻」隊員の告白」から引用紹介したいと思います。
なお、このエントリーは下記の続きとなります。

ある元特攻隊員の回想
ある元特攻隊員の回想-2

photo
P.67~
生き残り隊員から得た証言によって、衝撃の指名時の偽らざる告白のいくつかを挙げてみよう。
この人達の表現は多様であるが、端的にショックと絶望感の大きさを表している点では共通している。


  • カァッと頭に熱い血が上り、一瞬、それが冷水となってザアーッと音をたてて引くような、名状しがたい状態に置かれた。

  • 自分の名前が出てくるまでは、指名者をいちいち記憶していたが、その後のことは全く記憶にない。

  • 何かにすがりつきたい気持ちで、足が地に着かなかった。腰が抜けたような虚脱感が襲い、ヘナヘナとその場に座り込みたかった。

  • 自分の名前が出てこないように、胸の中でひたすら祈っていた。だがその願いもむなしく自分の名前が告げられた。一瞬目の前が真っ暗になった。

  • 何と表現すればいいのだろう。適当な言葉が浮かんでこない。とにかく考える力が湧いてこないのだ。気がついてみたら解散していた。

  • とうとう、やっぱり避けられなかったのかと思うと、全身から力が一気に抜けてしまったように思えた。

  • おえら方に向かって『おまえらは何で行かんのか! この腰抜けめ!』とあたり構わずわめきたい衝動に駆られていた。

  • 自分の存在が、足下の一匹の蟻にも及ばないように思えてみじめだった。

  • 死ぬんだ!死ななければならないのだ! そう思うと、いい知れぬ不安が胸いっぱいに広がってきた。


などなど確実な死を予告され、基地にあって自らの死と対決した人たち、こんな悲惨な体験をして生き残った人たちが、あだやおろそかに”神風”を名乗り、”特攻”を語って意気込むことができるだろうか。

下記に紹介するのは、ある特攻隊員選抜時の様子の証言です。同じく「語られざる特攻基地・串良―生還した「特攻」隊員の告白」からの引用です。

P.154~
私たちの特攻隊員選抜-ある航空機乗員養成所出身下士官の証言-

もう遠い昔に属することなので、その月日は明らかに覚えていない。たぶん昭和20年の2月だったと思う。
突然、搭乗員集合が命ぜられた。
「スワッ何事ぞ!」
と、不安と緊張の入り交じった気持ちで行動に集まった私たちを前にして、気負った表情で壇上に立った、第十三連合航空隊の一参謀が開口一番こう言った。

「戦局はただならぬ様相を呈してきた。もはや一刻の猶予も許されない。そこで当O空においても特攻隊編成を余儀なくされた。ついては、隊員となることの可否について、明朝までに諸君の腹蔵ない意志を確かめたい。これから各人に小紙片を渡すので、希望者は所属部隊名と氏名を書き、希望しない者は白紙のまま、今夜O空神社の賽銭箱に投じてもらいたい」

広い講堂は一瞬重苦しい雰囲気に包まれた。居並んだ面々も日頃の威勢もどこへやら、一様に息をひそめ、体は小刻みに震えていた。

解散!の声に、皆申し合わせたようにホッと大きく肩で息をすると、いましがたの緊張の重圧を解きほぐすように、誰が言うともなく「アーア、とうとう俺たちも弾代わりか」という自嘲にも似た言葉が飛び出した。しかし、いつもなら軽く受け流す冗談も続かなければ、明るい笑い声も起こらなかった。

長い一夜が明け、決められた箇所への投函も終わった。もう後に引けない意志を示した以上隠していてもしかたがない。一人が自分の投じた内容をあからさまにすると、それがきっかけとなって、一人一人が固い胸中の扉を開いた。堰を切ったように口がほころび、内輪の意志が判明した。成り行き上当然に希望と投じた者が圧倒的に多かった。だが白紙を投じた者も少なくはなかった。

私たちは軍人とはいえ、もとはといえば民間航空機の乗員養成所出身である。制度上、予備練習生卒として軍籍に身を置いてはいるが、望んで軍人になったわけではない。それだけに、私自身の考えとしては、職業軍人と全く同一視されて可否の意志を問われることに少なからぬ抵抗を感じていた。何事もないようなそぶりをしていながらも、何で私たちまでが・・・・・という不平不満が胸中に渦巻いていた。

再び集合が命ぜられた。極度の緊張に待つひとときは長かった。その上告げられた結果が意外であった。壇上で昂然と胸を張った参謀はこう言ってのけた。

「諸君!ありがとう。 諸君の国を想う心情にはただ頭が下がるのみである。諸君のような愛国心に満ちあふれた若人がいる限り皇国は不滅である。諸君の意志は全員熱望であり、ただの一人も白紙はなかった」と。

私は正直なところ、計られた! という思いでカアッと頭に血が上り、知らず知らずのうちに堅く歯を食いしばっていた。後日談になるが、この気持ちは決して私一人だけではなかったという。

要するに、私たちの意志を一片の紙切れに託させたのは、一つの形式的な手順を踏んだに過ぎず、あるべき形は事前に決まっていたのである。このような上層部のみえみえの作為には、いまなお思い出すたびに憤りがこみ上げてくる。
(略)
もう一つ、私の胸中をいまなお覆っている大きな不信がある。これはあまりにも日常化していたことだっただけに、その感がひときわ強い。それは、特攻隊を送り出すにあたって、気負った上層部は必ずこう言い切った。この言質はほかにおいてもまったく同じであったという。

「諸君だけを決して見殺しにしない。本官も必ず後から往くであろう」
「あとのことは決して心配するな」


その言葉の意味するものはいったいどういう事だったのか。果たして実行されたか?その実態はいまさらここにあげるまでもあるまい。

私は、戦後その人たちの「済まなかった」という悔恨の心情を言葉として聞いたことがないのはもちろんのこと、記録や記事で目にしたこともない。

このような、詐欺的とも言える手法で若いパイロットを特攻隊員にする例は、以前にも紹介した元特攻隊員、末永千里氏のブログ「老兵の繰り言」の『「第九銀河隊」を送る』という記事にも書かれています。
そして、命令した側で約束通り、後から往ったのは、大西瀧治郎宇垣纏だけのようですね・・・。

次回に続きます。

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コメント

そう言えば

>おえら方に向かって『おまえらは何で行かんのか! この腰抜けめ!』とあたり構わずわめきたい衝動に駆られていた。
・この前見た「あゝ 零戦」という映画に、実際にこう言い放つ場面がありました。モノクロ映画の時代ですが、この様な感情を吐露する方が多かったのかも知れませんね。
 この映画では、喚かれた隊長は、命令を下した時点では特攻隊に編入されておらず、その後上層部の説得を振り切って自ら志願していた。
 隊員が名指しで喚きちらしに来たときには、「残された時間は俺も同じだ!」となだめるシーンがありました。
 司令官や上層部には「後で行った」人は少ない様ですが、映画の様な飛行隊長クラスはどうなんだろう?
 何にしても、実際無くなられた方の気持ちは、推量するしか無いところが何とも、歯がゆいというか、もどかしいと言うか、仰るように我々が軽々に語れる話では無いですね。
 ただ、変わらないのは、感謝の念です。
 大西中将は、知覧に言ったときに知りました。
 「戦争責任」という定義のない責任は、戦争にかかわった個々人が「己の心情・行動」に対して「己自身で裁く」意外に無いのかなと思ったりします。
 勿論死ぬだけではなく無罪も含めてですね。

特攻隊員が特攻を命じられた当時の心情を読んで、我々と同じように「死」を恐れ、なんか身近な存在のように感じました。
特攻を言い渡された瞬間、どういう感覚だったのかって伝わってきます。腰が抜けそうになったり、頭の中が真っ白になったり、不満や怒りがこみ上げてきたり・・・。
あなたはあと何日の命ですよって、言われるみたいな感覚なのかな・・・。そう言われたら、なんで俺がとか、何も考えられなくなったりするんだろうなと自分に置き換えて想像してみました。

特攻作戦の後半は、事務的に続けられた節があるってのを何かで読んだことがあります。戦争に勝つためだとか、必要性があって行われたというよりも、一種の決まり事みたいな空気が軍上層部にはあったというのを。奇襲攻撃をするわけでもなく白昼堂々、米軍の艦隊や艦載機が待ち伏せしている中、ただ特攻機を飛ばすことが日常の業務みたいに。現地の司令の意思なのか、おそらく軍中央の強い意向があったんでしょうかね。

戦場の泥水をかぶることのない中央の参謀にそういう感情が芽生えたのは、不思議ではないかもしれませんね。現代でいう会社組織の中でも、そういう場面は確かにありますもんね。

特攻隊員が我々現代人と変わらない生身の人間であったということを改めて感じました。

コメントありがとうございます

>tonoさん

「あゝ 零戦」は、調べてみたら1965年の映画でした。敗戦後20年・・・、前のエントリーで引用したこの本の著者によれば、やっと少しずつ本音を語ることが出来始めた時期にあたりますね。
実際に特攻が始まってしまうと、今度は先に往った戦友への想いが加わり、"現場"に近い階級ほど、「自分も」という気持ちはあったかも知れませんね。

『ただ、変わらないのは、感謝の念です。』

どのような想いで特攻したかは、本人のみ知るところですが、今の日本があるのは紛れもなく彼らのお陰でもあるのですから、感謝の気持ちは私も不動です。

「戦争責任」という言葉は確かに大雑把すぎますからね。それに当時の世界情勢やら空気を知らぬまま、安易に後世の人間が口にできるものではないと私も思います。
しかし、反省し教訓とすべき処はあるはず・・・と思い、色々勉強しているつもりなのですが、ゴールはなかなか見えてきません・・・。



>くわっぱ上等兵 さん

『・・・身近な存在のように感じました。』

私もそう感じました。やはり生身の人間ですし、死ぬことは本能に反することですからね。自分にはとても出来ないような勇ましい話を聞くと、それに感動し、同じ様なヒーローを人は求めてしまうのかも知れませんが、逆にそれがヒーローにされてしまった人を追いつめてしまった面もあるのかも知れません。上海事変時の「爆弾三勇士」の話から、初期特攻の報道直後の世論の盛り上がり(マスコミが盛り上げたワケですが)につながる話を読むと、そんな気がします。
「常人には想像も出来ない勇敢な人達」ではなく、どこにでもいる身近な人たちが特攻していった・・・ますます頭が下がる思いになります。

『一種の決まり事みたいな空気が軍上層部にはあったというのを。』

誰の目にも日本が負けることがわかってきたときに、上層部は敗戦後の「これだけやってもダメだったんだ」という言い訳のために赤トンボまで特攻に出しんだと言う人もいるようです。このエントリーで書いた、形式的な志願のかたちがとられたのも、もしかしたらその為なのかも知れないですね。

『現代でいう会社組織の中でも、そういう場面は確かにありますもんね。』

これは私も強く感じています。生死が係わるという極めて大きな差はありますが、「組織」の問題はいつの世も変わらないのだな、と。先日のエントリーの美濃部正氏のような人がもっと多ければ、組織力もつき結果も好転するのでしょうが、悲しいかな、そういう人は少数派ですし。上司を選べない若い世代は、どこに配属されるかで明暗が分かれるのも、同じですしね。

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