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沖縄集団自決は軍の命令だったのか?座間味島の場合-5   


【このエントリーを読まれる方への注意】
これは、あくまでも座間味島に於ける梅澤裕さんと宮城初枝さんとの間の話です。極めて限定された場所と人物についての話であり、沖縄各地で起きた集団自決を物語っているわけではありません。
時折「沖縄集団自決訴訟」だけをとりあげ、梅沢隊長(座間味島)、赤松隊長(慶良間島)の命令の有無だけを取り上げ「命令はなかった」という論調を見かけますが、それはこの問題を著しく矮小化し歪めていることに留意してください。

沖縄戦における「集団自決」と「住民虐殺」の事例一覧

(2007/10/29追記)


このエントリーは、以下の続編となります。

- 沖縄集団自決は軍の命令だったのか?座間味島の場合-1
- 沖縄集団自決は軍の命令だったのか?座間味島の場合-2
- 沖縄集団自決は軍の命令だったのか?座間味島の場合-3
- 沖縄集団自決は軍の命令だったのか?座間味島の場合-4

昨日のエントリーの後半部分、「さて、ここで気をつけたいのは、・・・」のところで、戦後の補償を得るために「自決命令があった」と証言することになったのではないかも知れない、という趣旨のことを書きましたが、どうやら私の想像はハズレだったようです。

と、いうのも、「母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言」の著者・宮城晴美さんが、この本の内容よりも、さらに詳しく具体的にその背景をつづった文章を、ネット上で見つけたからです。下記に引用させて頂きます。

「援護法」とのはざまで

話は1956年にさかのぼった。
沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座簡味村では1953年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから3年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。

この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用習されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるという論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。

その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。

母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材・財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。

それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。

「ZAMAMI-SAILING」の「座間味島の歴史」のページより転載)

・・・ということのようです。

つまり、もともと、座間味村の方から1956年に、一般住民への補償要求を厚生省に行っていたのですね。しかも、この時すでに、村当局が「隊長の命令で自決が行われた」と主張していた・・・。そして前回書いたとおり、翌1957年に座間味島で厚生省の調査が行われた時に、調査員の「住民は隊長命令で自決をしたといっているが、そうか」という内容の問いに、島の長老の指示で、宮城初枝さんは心ならずも「はい」と答えざるをえなかった。

やはり、座間味島で「自決命令があった」とされた背景は、一般住民への補償問題があったのですね。

しかし、軍、隊長による「自決命令」が最初に活字になったのは、1950年の『鉄の暴風』(沖縄タイムス社/初版本は朝日新聞者刊)のようです。その中には、「座間味村の”集団自決”は軍の命令によるもの、渡嘉敷村は、赤松嘉次隊長の命令であった」と書かれているとか。(「母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言」 P.254)

ですから、保証を得やすくするために「自決命令があった」という話を作ったのではなく、もともと、「鉄の暴風」に自決命令があったように書かれていたので、それを利用したという感じなのかも知れません。

いずれにしても、その時は世間的にはそれほど騒がれなかったのが、徐々にマスコミに取り上げられだして、「集団自決命令」という言葉が一人歩きを始めてしまったということのようです。

okinawa(6:10)




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コメント

鬼畜という知らない物への恐怖

 疎開先で米軍の戦闘機に機銃掃射をくらい逃げまどった体験を持つ母親に言わせれば、戦争を知らないで語るな、あの雰囲気や恐さは体験しないと分からない!。
 鬼畜米英・・・母は終戦時小学校を卒業する位ですが「髪を切れ」「外を歩くときは男の様な恰好をしろ」と親・先生に言われたそうです。
 まして、沖縄は戦闘中でその鬼畜が上陸してきているのです。
 恐らく想像を絶する恐怖が島民を支配して居たと思います。
 そんな中、軍が非戦闘員に対して死ねと命令して何になると言うのでしょう?
 命令されたからって死ねる物でしょうか?
 逆に、当時の沖縄では、もう命令等という物にどれ程の効力が有ったのでしょうか?
 軍に命令されるまでもなく、島民には死の選択しかのこらない恐怖の中に有ったのでしょう。
 鬼畜への恐怖と、誇りある自決への恐怖が、究極の選択として残ったのでは無いでしょうか?
 戦争は軍隊だけでなく、全国民がしていたのです。
 
 島で、軍と反対側に逃げろという命令も、後には軍は住民を(連れずに)見捨てた!と言われました。
 これとて、玉砕するつもりの軍からすれば、島民が助かる可能性が少しでも残る方法として、断腸の思いで指示したのでは無いでしょうか?
 もちろんこれらは、全て推測です。
 しかし、
 当時の方達は、軍も兵隊も島民も、非体験者には想像を超える恐怖の中で、常に最善の選択をしてきたのだと信じます。

>tonoさん

コメントありがとうございます。

本当に体験した者でないと理解不能の恐怖だと思います。宮城初枝さんの手記を読むと、本当に、万策尽き果てた・・・という感じが伝わってきます。
実際に沖縄本島が燃え上がるのを目にし、自分たちの家も学校もみな空襲で焼かれた時に、敵国の人間が鬼に思えるのは自然な感情です。
それに、自決を決心した家族たちはみな、晴れ着を着ていたようです。
そこには、やはり日本の精神性が表れているように思うのです。

仮説をたてるのはいいのですが検証に推測での決め付けは不要です。
資料や証言から一つ一つ検証していく行動があるのみです。

> tono さん
戦争の体験はみなそれぞれです。
特定の人の話ですべてを判断するのは間違いのもとです。

>匿名さん

たびたびコメントありがとうございます。

検証などという高尚な物ではなく、歴史のど素人が読書感想文を書いている程度のブログで、何かの結論を導き出そうとしてはおりませんので、拙ブログにあまり多くは望まないでください(汗)

他のエントリーも読んで頂ければおわかりいただけると思いますが、私は人に問いかけるような語尾をよく使います。それは、「私はこう感じたんだけど、どう思いますか」という読んで頂く方への問いかけであり、私より歴史に詳しい方のフォローやツッコミを密かに期待している(笑)からでもあります。

もちろん、エントリーのテーマに沿っていなくても、今回いただいたコメントのように、歴史を勉強するときの注意点などを示唆して頂けるものも、真摯に耳を傾ける気持ちでおります。

試行錯誤でやっているブログですが、ぜひまた色々とご助言頂けれると嬉しいです。

えらそうなことをいろいろカキコミしてしまいもうしわけないです。
私のほうがこちらから勉強させていただいてます。
つい最近になってこの時代のことに関心を持ち調べていて
こちらにはたどり着きまして私の知りたい情報がたくさんありました。
感謝いたします。これからがんばっていただきたいと思います。
私も自分でいろいろと調べてみたいと思ってます。

>匿名さん

>えらそうなことをいろいろカキコミしてしまいもうしわけないです。

いえいえ。こちらこそ貴重な御意見ありがとうございました<(_ _)>
匿名さんが調べられて、参考になったお話などがありましたら、ぜひお聞かせください。自分も勉強中ですから、いろいろ情報交換できると嬉しいです。
また、遊びに来てくださいね。

これ置いていきますね

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200707281300_01.html
酔っ払いが通ります

返信が遅くなりすみません

>通りがかり さん

ありがとうございました。
ただ、ちょっと・・・「酔っ払い」の意味がわかりませんでした・・・。

初めまして。最初にはっきりと申し上げます。私はは被告側にシンパシーを感じているものです。
一つ重要な疑問点を感じましたので書いてみます。
梅沢裕氏が座間味島に守備隊長として着任したのは昭和19年9月でした。当時の軍、官、民の関係はどうだったのでしょうか。
近く米軍の襲撃が近いうちあるかもしれないという切羽詰った状況では、
軍主導であって、官と民はどう協力するかという課題があったと思います。いざ米軍が攻めてきたらまず抵抗するのは軍です。
梅沢氏が守備隊長として着任してか戦闘に至るまで約6ヶ月間ありました。この期間に島の状況、官、島民の状況は充分把握できたはずです。
ですからいざ戦闘となったとき官はどうすべきか、島民はどうすべきか、その指示は行っていたと思います。
もし3月24日の夜、島民代表5人が来て始めて島民のやろうとしていることを知ったのでしょうか。それではで守備隊長として怠慢としか言えないのではないでしょうか。
裁判の内容は詳しく知りませんが、3月24日にどう言ったということだけでなく約半年の間の戦闘に対する準備、官と島民への指示を調べる必要があると思います。
それともう一点ありますが、それは梅沢氏が守備隊長として任命されたわけですから、結果としてはその任命を全う出来なかったと思います。氏はこのことに対いしてどう責任を感じていらっしゃるのでしょうか。
以上2点の疑問を感じましたので書きました。








■ゲストさんへ
コメントありがとうございます。(お名前が書かれていなかったので、「ゲストさん」とさせて頂きますね。)

最初にお断りしておきますと、お読み頂いたエントリーは半年前のものです。その後もいろいろ調べたり考えてきていますので、私自身このエントリーを書いた頃とは考え方が変わってきていることを先に申しておきます。
そうはいっても、まだまだ勉強不足であり、これから書くことも今持っているわずかな知識とその印象の範囲内に限られてしまうこともご理解ください。

さて、「当時の軍、官、民の関係はどうだったのでしょうか。 」とのことですが、「母の遺したもの」の宮城初枝さんの手記の部分を読むかぎりに於いては、割と良好だったような印象を持ちました。米軍が来る前ですから、初枝さんも役場の人間として割と積極的に協力していたような印象です。

ただ、梅沢氏は「海上挺身戦隊」つまり、「○レ(マルレ)」という爆弾を乗せたモーターボートで敵艦に体当たりする任務の部隊(いわゆる水上特攻)でしたので、島民を守るという意識は薄かったのでは?という推測もあり得ると思います。
少なくとも、彼が座間味に赴任した理由はそこにあったわけですから、住民を守れなかったとして責任を問えるかどうかは微妙な気もしますし、ご質問の件は私としては、判断は保留しておきます。

「氏はこのことに対いしてどう責任を感じていらっしゃるのでしょうか。」

それは私にはわかるはずもありません。

命令の有無は「命令」をどう解釈するかによって変わってくると思いますし、林博史氏の「米軍が上陸しても日本軍がいなかったところでは集団自決は起きていないという」研究もあり(それだけで因果関係が明確になるかどうかもわかりませんが)、なんとも難しいところなのですが、教科書検定問題に限って言えば、「つくる会」関係者の介入が明らかになった以上、とても公平とは言えませんし、「つくる会」関係者の教育への介入をとても危惧していますので、是正されるべきと今は考えています。

ただし、梅澤氏の「命令」の件が冤罪ならば、それはそれではらされるべき友考えています。

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