なお、このエントリーは下記の続きとなります。
大東亜戦争中に始まったアメリカの対日占領政策
アメリカが計画していた日本本土決戦
アメリカが計画していた日本本土決戦-2
これまでの一連のエントリーで触れたように、アメリカは勝利を確信し政治・軍事面とも対日戦略を構築していたわけですが、今回は実はその戦略を揺るがせるものがあったという話です。
硫黄島、沖縄戦は米軍の「敗北」(P.99~)【東京大空襲(2:28)】
(略)1945年3月には恐るべき第一派の東京大空襲が行われた。44年7月にサイパン島が落ちたあと、アメリカ軍は同じマリアナ諸島中のテニアン島を中心にB29の基地をつくっており、同年末から試験飛行的にB29が日本に飛来していた。
この3月9日、10日には、空が真っ暗になるほどの大編隊が東京の下町を襲った。焼夷弾攻撃によって、一晩で10万人を超すという、原子爆弾による被害に匹敵する犠牲を出したのである。
こうしてアメリカの日本打倒プログラムは順調に進展しているかに見えた。有無をいわせぬ軍事的打倒によって、日本に無条件降伏を強いることはできそうに見えた。ところが同じ時期に、アメリカ軍部にとって頭の痛い問題が起こる。ヤルタ会談と同時期に行われた硫黄島の戦い(2月19日~3月25日)である。小さな戦闘であったが、アメリカ軍にとっては意外なショックであった。
(中略)
アメリカ軍にとって最もショックだったのは、この硫黄島攻略線で日米の死傷者比率がほぼ1対1の同数になったことであった。ガダルカナルでは23対1と、ア
メリカ兵一人の死傷に対して日本兵23人が死傷であり、しかもそのほとんどが死亡していた。ところが戦地が日本本土へ近づいて来るにともなって日本軍の抵抗が厚くなり、レイテ島(44年10月上陸)やルソンの戦い(45年1~2月)ではほぼ5対1の割合になった。アメリカは圧倒的な優勢で戦ってこられた。
ところが硫黄島の戦いに至って、この死傷者比率がほぼ1対1になったのである。
(中略)
日本本土に近づくにしたがって、日本兵の抵抗は常軌を逸してくる。この調子で日本本土決戦を迎え、日本の兵隊のみならず国民までが非常識な抵抗をしたらどうなるのか。日本兵はアメリカ兵の圧倒的な火力の前に倒れるであろう。しかし、死んでいく日本兵は一人ずつアメリカ兵を道連れにする構えを示している。果たして日本本土決戦を楽観できるのかと、アメリカ側は考えざるを得なかった。
【硫黄島(1:31)】
日本軍の必死の抵抗はもちろん硫黄島の戦いだけではありませんでした・・・。
(P.102~)
4月1日に始まった沖縄戦でも同じ事が繰り返された。はじめこそ日本軍の抵抗は少なく、飛行場も簡単に制圧した。しかし南部の首里に回ったところで、すさまじい抵抗にある。特攻機が艦船への体当たりを、くり返し試みた。日本軍の戦意衰えず、どころか、鬼気迫る異様さを帯びてきた。
(中略)
アメリカの第二次大戦中の文書をワシントンの国立公文書館で見ていて、私はびっくりした。沖縄戦に関しては、アメリカ側が敗者意識を持っているのである。実質的な敗戦である、と言うのがワシントンの受け止め方であった。つまり、4月中に作戦完了予定の沖縄戦が5月に入り、5月中には片づかず6月にずれ込む。
そして6月も下旬の23日になって、ようやく片づいた。三倍の期間をかけたこの戦いは実質的には敗北である、というのがアメリカ側の受け止め方である。硫黄島、沖縄はアメリカ軍部にとって失敗した作戦、もしくは苦すぎる勝利である、と言うのがアメリカ軍部の実感であった。
【神風特攻(3:24)】
今回は、動画も交えて引用紹介してみました。
この日本の必死の反撃が、その後のアメリカにどのような影響を与えたのか・・・次回に続きます。
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