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大東亜戦争の外的要因-アメリカの人種差別政策-2   

最近すっかり仕事に忙殺されてしまって、自分がBlogをやっていたことさえ忘れかけていました(^^ゞ
忙しくっても,それで会社も自分も儲かるのなら良いのですが、まったく自分のいるこの業界ってのは・・・って、愚痴を書き出すと止まらなくなりそうなので(笑)、以前のエントリーの続きを書こうと思います。

以前のエントリーというのは、日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎と言う本からの引用紹介です。

4396312024

この本については下記の過去エントリーで取り上げていますので、興味のある方はお時間のあるときに是非どうぞ。
  1. 戦争について考えるエントリー再開
  2. 終戦前の日本から学ぶべきは何なのか-1
  3. 終戦前の日本から学ぶべきは何なのか-2
  4. 終戦前の日本から学ぶべきは何なのか-3
  5. 終戦前の日本から学ぶべきは何なのか-4
  6. 明治憲法の曖昧さがもたらした軍部の政治介入-1
  7. 明治憲法の曖昧さがもたらした軍部の政治介入-2
  8. 明治憲法の致命的欠陥の露呈
  9. 大東亜戦争の外的要因-1
  10. 日米開戦を痛快と感じた当時の日本
  11. 大東亜戦争の外的要因-アメリカの人種差別政策-1

---------------------------------

今回も、昔のアメリカの日本人に対する人種差別政策を見ていきたいと思います。


P.164~
アメリカの排日移民の動きはシナ移民の排斥に引き続き、1880年代からあったのであるが、政府間でも民衆レベルでも大きな問題になっていなかった。それが急に注目を浴びるようになったのは、奇しくも日露戦争の翌年(1906)の二つの事件によってである。それは一つには4月18日のサンフランシスコ大地震であり、もう一つは、その年の10月11日にサンフランシスコ市教委区委員会が、日本人と韓国人の児童を白人から隔離することを決定したことである。
この地震の時に、日本政府は日露戦争後の苦しい財政の中から、50万円をサンフランシスコ市に、5万円を在留邦人に見舞金として送った。この時の日本の国家総予算は約5億であったから、その1000分の一以上をサンフランシスコ市に、1万分の一以上を在留邦人に送ったことになる。

この多額の見舞金には日露戦争の際のアメリカの行為のお礼の意味もあったのかも知れませんが、しかし、カリフォルニアではこの地震が引き金になって日本人・韓国人の児童の差別が実行されました。
サンフランシスコ市は自身で学校が壊れたり消失したりして、公立学校が狭くなったという理由から、黄色人種の子供達は公立学校から追い出され、近くに人家のなくなった焼け野原にぽつんと経っていて、子供の通学に不適当な学校に移されることになった。
(略)
領事は市当局に抗議したが埒が明かず、ワシントンでの外交問題にまで発展した(翌年に条件付きで撤回)。
当時、アメリカ内での黄色人種差別は、地域によってかなりの温度差はあったようです。
ワシントンでは、ルーズベルトがカリフォルニア州のやり方が悪いことを認めていた。セオドー・ルーズベルト大統領は、議会に対しても、日本が長い間、アメリカの友好国であり、すでに欧米の一等国と同一水準であること、またサンフランシスコ地震には多大の見舞金をもらっていることを指摘して、日本人を公平に扱う必要があることを訴えている。そのカリフォルニア州をたしなめる調子は実に厳しい。アメリカ中央政府の対日協力については文句の言いようがなかった。
しかし、地元(カリフォルニア)はますます強硬になった。
なぜ、そんなに日本人は移民先のカリフォルニアで疎んじられたのか・・・それは、単に人種差別意識の他にもいくつか理由はあったようです。たとえばWikipediaには、
「日系人だけで閉鎖的コミュニティーを形成し地域に溶け込まない」、「稼いだ金は日本の家族に送金してしまう」などとアメリカ人からは見られていた。また、現実にアメリカ市民権の取得には熱心ではない人が多く、合衆国への忠誠を誓わないなど、排斥される理由はあった。
とありますし、生来勤勉な日本人が安い賃金で働くので、仕事を奪われるという危機感もあったようです。
日本政府もアメリカの立場を十分理解する態度を取った。日本移民のいろいろな習慣が米国人と異なり、それが不快感を与えることも知っていたし、また、白人の有色人種に対する感情もよく知っていたから、無理に移民を受け容れ続けてくれ、などという要求は一切しなかった。要するに、日本政府がこだわったのはメンツのみであり、アメリカ政府もそれは十分理解していた。
そして、翌明治40年(1907)から41年にかけて、いわゆる「日米紳士協約」が協議され、成立した。簡単に言えば、日本はアメリカに実質上、移民を入れないようにするし、アメリカは日本を差別するような表現を持つ移民法を作らない、と言うものであった。これでアメリカは実質を得、日本は面目を保ちえて、一件落着になっても良いところであったが、そこで収まらないところが悲劇のもととなった。

カリフォルニア - そしてカナダでも - 排日運動が少しも下火にならなかった。さすがに親米一辺倒であった日本人も、自分たちがアメリカ人に憎まれていることを、だんだん気づかされるような一連の事件が起こる。
そしてついに大正2年(1913)、カリフォルニア州が排日的な土地法を成立させた。
そして、国際連盟で日本が提案した「人種平等」条項の否決や、排日的な合衆国憲法修正案まで提出する議員の登場、など、習慣の違いによる嫌悪感というレベルでの差別を超えて排日運動が続いていったようです。


(次回・・・と言ってもいつになるかわかりませんが(苦笑)、関連エントリーは続けます)


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