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大東亜戦争の外的要因-1   

今回から、「日本史から見た日本人 昭和編」の引用紹介に戻ります。「やまとことば」については、また時折ご紹介していこうと思います。
前回までは、戦前の日本の内部的な問題を取り上げましたが、言うまでもなく、それだけであのような大戦争になったわけではありません。むしろ今回から取り上げる外的要因の方がはるかに大きかったのではないかと考えます。明治憲法(大日本帝国憲法)に問題があったにしろ、これから取り上げる外的要因さえなければ日本は大東亜戦争に向かうことはなかっただろうというのが著者の渡部昇一氏の説です。

日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎
渡部 昇一
4396312024

では、第二章の『世界史から見た「大東亜戦争」 三つの外的要因が、日本の暴走を決定づけた』から、引用を始めます。

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英国より平和的な昭和初期の外交 P.144~
今の日本は最も戦争しそうにない国の一つである。徴兵制は 導入されそうにない。外国に攻めてゆく可能性なども誰も考えていないと言ってよいであろう。日本が最悪の軍国主義と侵略主義の国として断罪されたのは約四 〇年前である(※)。この四〇年間、日本は戦争を始めるような気配は、毛ほども示したことはない。
国民性は、そんなに簡単に変わるものだろうか。それとも平和憲法の力がそんなにも強いのだろうか。原爆の体験がそれほど深刻だったのだろうか。これらは平和主義的な現在の日本を、ある程度は説明してくれる。特に原爆が強烈な抑止力であることは各国共通である。
だが、戦後日本の場合、平和主義の最大の理由は、戦争の必要がまったくなくなったことである。
※この本が出版されたのは、平成元年五月です。(平成一二年に文庫本化)
前章でも述べたように、大正デモクラシーの時は、日本でも平和主義が盛んであって、多くもない師団をさらに削減し、せっかく作った軍艦を廃棄していたのであった。それは昭和に入ってからも最初のうちはそうだったのである。
世界大戦においては、いつも「正義」の側にあったイギリスよりも平和主義であった。日本は侵略者として烙印を押されていたシナ大陸においてさえ、イギリスよりも平和主義的であり、いぎりすよりもはるかにジェントルマン的(「穏和な人」という意味)であった。一例だけ挙げてみよう。
幣原外交を不可能にした外的圧力とは P.145~
昭 和二年(一九二七)の正月四日、漢口のイギリス租界で、中国人とイギリス義勇隊の間に争いが起こった。「租界」というのは今でこそなじみが無くなった が、、戦前は中国のたいていの大都会にあった先進諸国の治外法権地域であり、そこには中国政府の権力が全く及ばなかった。もちろん、武漢の主要都市たる漢 口にもイギリス租界があった。

この事件の前の年の夏以来、蒋介石の軍隊は北京にいる張作霖らの軍隊をいたるところで破って、中国統一を大 きく進めていた。このいわゆる北伐野成功を祝う祝賀会が盛り上がったあまり、租界を守っているイギリス義勇軍と国民政府宣伝隊が小競り合いを起こし、それ に民衆が加わり、死者一名を含む数十人の負傷者を出した。翌日、一度話し合いはついたのだが、暴徒化した群衆は租界に進入した。イギリスの軍艦は揚子江の 中流にいたため、その陸戦隊は間に合わず、群衆は暴れ放題であった。これに乗じて国民政府は一月五日、漢口のイギリス租界を実力で奪回し、ついで近くの九 江の租界をも実力奪回した。
今の目から見れば、租界の存在そのものがけしからんと言うことになるが、当時は正式に政府間の取り決めで決まったことであるから、イギリス政府が怒ったのも無理はない。
(このころの中国人は国際条約で決まったことを勝手に破ることを国威宣揚と考えていたふしがある)
租界については、以前にも紹介したこちらのサイト(「租借地と租界」)に詳しい情報があります。
これに対処するため、イギリスは極東艦隊を南京に集結し、一月二二日には二万三五〇〇人の陸海軍将兵を動員した。これに先立ち、イギリス政府は、日本やアメリカやその他、租界を持つ国々に共同出兵するよう要請していた。日本は明治三三年(一九〇〇)年の義和団事件(北清事変)以来、イギリスなどには歩調を合わせて中国の暴徒を鎮圧するため戦ってきたのだし、日本も租界を持っているのだから、当然日本も同調してくれるだろうとイギリスは思ったのである。
この時の内閣は若槻礼次郎、外務大臣は幣原喜重郎でした。
幣原外相は、中日イギリス大使ティーレーにいくら協力を頼まれてもイエスと言わず、中国への出兵を断固拒否し続けた。
当時の日本の外交の首脳は、租界が時代遅れであることを他の国々よりも先に認識していたのである。中国にいる日本人の生命財産を租界などを作って保護することは時代に合わないから、危険が生じたら危険ではないところに移動させればよいという考えだった。

昭和二年における日本の外交政策は、イギリスなどよりもはるかに非侵略的、かつ平和主義的、かつ支那に対して権利尊重主義であった。幣原外交は、当時の世界で最も平和的で人道的なものであったのである。
では、幣原外交の継続を不可能にしたものは何か。それはまず、国内的には明治憲法の欠陥が統帥権干犯という形で噴出したことによる。では、何が統帥権干犯問題を噴出させ、幣原外交のみならず、日本の文民統制を不可能にしたのか。明治憲法に欠陥があると言っても、外から非道な圧力が加わらなかったら、それは表に出ないですんだのである。事実、幣原外交がそれまでは可能だったのだから。

そこで再び同じ問題に戻る---幣原外交の継続を不可能にしたものは何か。
それは三つある。しかも、この三つが同じ頃にかたまって悪化した。

第一はアメリカの人種差別政策であり、
第二はホーリイ・スムート法(米国で一九三〇年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向であり、
第三はシナ大陸の排日・侮日問題である。
「軟 弱外交」など様々な評価のある幣原外交ですが、海外の居留民に危険が迫ればすぐに軍隊を派遣するのが常識の時代においては確かに平和的で先進的だったと言 えるかも知れません。現代ではこの常識が大きく変わっていますが、中韓に対してだけは、七〇年経ってもこのような外交は通用しないことに変わりありません ね・・・。

次回からは、これら三つの外的要因についてみていきたいと思います。

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コメント

幣原外交

幣原外相の心は分かるところが
ありますが、時代に対して、先進的
過ぎたのではないかと思うのです。
条約違反が平気な民族で、同胞の生命
が危険にさらされている時は、やはり
毅然とした態度も必要だったので
しょう。
もし、幣原外交を推し進める腹積もり
ならば、支持されるかどうかは別として、明確な理由と共に、租界自体を廃棄するくらいの政策も打ち出すべきではなかったかと思います。

>小楠さん

幣原喜重郎に対しての人物評が、批評する人によって随分違うことを、恥ずかしながら最近になって気づきました。
時代に対して先進的すぎたというのは渡部氏も書いていますし、小楠さんのおっしゃるとおりだと思います。
ただ、治安が悪化する中で暮らす居留民の声には鈍かったのかなぁという気もしますね。

それにしても、幣原外交が支那人に通用しなかったことを今の日本の対中外交は活かせていないような気がします。支那人の特殊な国民性を全く理解していないか、ハニーポットにやられたかのどちらかだと感じます。

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