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明治憲法の曖昧さがもたらした軍部の政治介入-2   

本日(10/11)のニュースの中に下記のようなものがありました。
安倍首相「核実験失敗でも制裁行う」…参院予算委
集団的自衛権について、首相は「研究を行った結果、我が国が禁止する集団的自衛権の行使ではない、という解釈を政府として打ち出すことも十分ある」と述べ、個々のケースで事実上の政府解釈の変更があり得るとの考えを示した。
前のエントリーで憲法の解釈変更への疑問を書きましたが、北朝鮮を巡る情勢変化と憲法改正論議のスピードの差がありすぎるので、現状ではやむをえないでしょうね。しかし、これは自国の安全保障と憲法改正論議を先送りにしてきたツケと考え、今後積極的かつ前向きな議論がなされることを望みたいものです。

本日、司法試験の勉強をなさっているというtomockyさんから以前のントリーにTBを頂きましたが、政治的立場やイデオロギーではなく、法律を研究する立場からの御意見は参考になりました。(tomockyさん、ありがとうございました)

また、ついでですので、先日の「その時歴史が動いた」で吉田茂を取り上げた時の最後に紹介された言葉も引用しておきます。
戦後日本独立までの過程で、自らが積み残した問題を解決して欲しいと、後の日本人にメッセージを残しています。
「改革すべきことがまだまだある。甲論乙駁の間に適切な制度を生んでゆかねばならぬ。徐々に、しかも適切に、時間をかけて。何事も永久不変に妥当な制度などがあるはずはない。
(吉田茂著「回想十年」より)
-------------------------------------
では、引き続き「日本史から見た日本人 昭和編」から引用紹介を続けます。
日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎
渡部 昇一
4396312024
P.46~
二個師団増設案を閣議で否決された陸軍大臣上原勇作中将は、今更事案を撤回するわけにはいかないと感じた。この案は、陸軍次官の岡市之助や軍務局長の田中義一と練り上げたものであり、陸軍の大御所の山縣有朋はじめ、陸軍の長老達の諒解を得たものであったからである。それで、師団増設案が閣議で難行した時、山縣有朋は、財政に詳しい元老の松方正義をも動かして、西園寺首相が陸軍の要求を認めるように説いた。
西園寺や他の大臣達も、必ずしも師団増設に絶対反対というわけではない。財政が問題なのであった。そこで、師団増設を一年だけ延期するという妥協案が出された。しかし、上原勇作は譲歩する気がなかった。

陸軍の長老達にも西園寺首相に同情する人達がおり、、高島鞆之輔大将や日露戦争時の上原の上司であった大山巌元帥も西園寺首相の妥協案を呑むように上原陸軍大臣を説得しましたが、上原は耳を貸さなかったとか。

その後、上原は再度西園寺首相を訪ねて師団増設を認めるように交渉、しかし首相は閣議決定済みと拒否。山縣有朋と相談(?)した上原陸軍大臣は、大正元年(1912)12月2日、辞表を持って大正天皇に拝謁、「二個師団増設は延期できないことであり、政府と意見が合わないから辞職する」と直接辞表を提出しました
P.48~
それまでは国務大臣が辞表を出すときは -病気などでその例はあった-  総理大臣の手元に出すことになっていた。
(略)
ところが、国務大臣である陸軍大臣が直接に天皇に対し、帷握上奏(いあくじょうそう:参謀総長が直接、天皇に上奏すること)の例になたって、辞表を天皇に出したらどうなるか。
そんな例はそれまでなかった。西園寺首相は翌12月3日、参内して天皇に行政整理の現状を報告し、その後直ちに山縣有朋を訪ねて後任の陸軍大臣の推薦を頼んだが、山縣はうんと言わなかった。

その時点まで西園寺は、上原が直接、天皇に辞表を出したのに驚いたにしろ、後任の陸相を差し替えればよいと思っていたらしい。ところが、陸軍の大御所が後任を推薦しないという事態に直面したとき、事件の重大さを悟った。
(略)
陸軍が(大臣を)出さないといえば、それで組閣はできない。西園寺首相は12月5日、青山御所に参内し、内閣不統一の責任を負って辞表を大正天皇の奉呈した。

これで、陸軍中将一人で倒閣できると言うことが、天下に明らかになった。しかも、上原のやったことは明治憲法では可能なことだったのである。ただ、誰もこれまで気づかないことだったのだ。
この事件の背景にある元老達の人間関係とその影響についての著者の推論は、非常に興味深いものがありますが、長くなりそうなので省きます。
さて、この事件は、軍が内閣を倒せるという前例を作ってしまったものの、その後の流れは昭和初期に比較して健全なものでした。
軍部の横暴に対抗しえた大正の「憲政」P.49~
(略)
しかし、大正のはじめのこの事件は、昭和の初めの事件とは似ていながらも結果が違っていた。それは、この憲法の弱点を巧みについた軍部の倒閣行為に対する反撥力の強さと、修復力の見事さである。
大正二年(1913)1月5日、西園寺内閣が総辞職すると、翌日に、すぐ宮中において元老会議が行われた。出席者は山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌の4人だったという。元老の中には、大山元帥をはじめとして、西園寺に同情し、上原の独走を危険と見る人が多く、山縣も実際に内閣が大臣一人のために潰れるのを見て、反省したかのごとくである。
(略)
上原勇作は期せずして、議会の内外に護憲運動の大きな盛り上がりを起こさせたことになる。軍部を抑えなければ、立憲政治は成り立たないことがみんなにわかったのである。
その後、米英の建艦競争に危機を感じた海軍も組閣に影響したりと、微妙な状態ながらも、統帥権干犯問題が起こるまで日本の政治家達はまがりなりにも軍部の暴走を抑えることができていた。しかし、問題の本質は変わらない・・・
結局、陸軍閥の元老が良識を持てば憲政は円滑に動き、我意を通そうとすれば内閣は倒れる。憲政の円滑なる運営は、憲政という制度に補償されたものでなく、元老という個人の良識次第であったことがよくわかる。元老、元勲達は着実に老いてゆく・・・。


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コメント

本末の判断

記事の最初の部分ですが、
>>個々のケースで事実上の政府解釈の変更があり得るとの考え

憲法が何のために存在するか、まさか国と国民を危機に陥れるてめではないでしょう。
国や国民の安全に、憲法が支障をきたし、憲法のために国が滅びるなどは愚の骨頂です。
危急の場合は憲法を停止してでも、事態に対処するのが当然だと思います。
どんな場合でも憲法最優先は、本末転倒も甚だしい例でしょう。

まったくですね。
憲法ではないですが、「本末転倒」で思い出すのは阪神大震災です。神戸港(?)で支援物資を積んだ米軍艦船の入港さえ拒否、という話もありましたし・・。

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