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明治憲法の曖昧さがもたらした軍部の政治介入-1   

エントリーのタイトルを変えましたが、引き続き「日本史から見た日本人 昭和編」から引用紹介を続けます。
日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎
渡部 昇一
4396312024

「なぜ議会制民主主義は崩壊したか」の章から、昭和5年の統帥権干犯問題への序章とも言える事件を抜粋して紹介します。
昭和史の運命を決めた山縣の策謀 P.42~
しかし、日清戦争以後、軍部が日露戦争を覚悟せざるとえない時局の展開になってきた。それで、明治31年(1898)年6月、大隈内閣(首相大隈重信、内務大臣板垣退助のいわゆる隈板内閣(わいはんないかく))が成立するに当たって、軍部はその成立を阻止しようとした。隈板内閣は、かねて反軍的な色彩の人達からなる政党内閣であるから、軍事予算を十分出してくれないだろうと心配したのである。
軍部は大臣を出さないことによって、この内閣を流産させようとしたのであった。また、大隈も板垣も、陸海軍の大臣がいないのでは組閣はできないと断念しかかったのであるが、明治天皇のご意向もあって、軍も折れた。
明治天皇の詔勅と言っても、誰かが(おそらく伊藤博文が)補佐したわけである。

すでに、この時期に軍部は自分たちにとって不都合な内閣への影響力行使を目論んでいたことがわかります。軍部としては日本の安全保障を憂慮しての行動だったのでしょうが・・・。
P.45~
明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御されると、皇太子嘉仁親王が践祚(せんそ:皇位継承)され、大正と改元になった。そして、その年の暮れには、陸軍大臣の単独辞職で、明治憲法の条文の論理的帰結により内閣が総辞職するという事態が、早速起こったのである。
当時の首相は西園寺公望であり、財政の整理を主眼として政策を進め、軍備の拡張は急がない方針であった。しかし、陸軍はこれに不満であった。
というのは、2年前の明治43年(1920)には日本は韓国を併合したため、国防の範囲が広がったからである。とりあえず、内地から一個師団版の兵力を朝鮮半島に派遣することにしたが、もちろんそれで充分というわけではなかった。
イギリスのインド駐在軍は、インドに財源を持っていたそうであるが、韓国駐在の日本軍は日本人の税金で維持しなければならなかった。ここにおいて、首相の方針と陸軍の要求は対立した。

陸軍と首相の言い分は、それぞれ次のようなものでした。
陸軍にしてみれば日露戦争に勝ったものの、ロシアはその後も満洲に対する野心を捨てたわけではなく、シベリア鉄道を整備し、日露戦争の時よりも、はるかに迅速に大軍を満州北部に動員できる体制を完備している。日本の駐韓の一個師団は、半島の特別な事情のため、100カ所にも分散して駐屯させなければならなかった。陸軍大臣の二個師団増設の要求は、ここから生じたのである。

一方、首相から言えば、日露戦争は勝ったもののロシアから賠償金が取れたわけでなく、国民経済に与えた大戦争の傷は治っていなかった。それで、政府の支出を減らすことにし、各省には9パーセントから15パーセントの支出削減を行わせたが、陸軍省は3パーセント足らずの整理しかなかった。
こうした行政改革の時に、二個師団増設を要求するのは、別の言葉で言えば、他の各省が節約した分を陸軍に使わせてくれ、と言うのと同じ事である。
それに、陸軍の要求を呑めば、海軍も拡張案を出して来るに決まっている。海軍大臣斉藤実はすでに案を持っていたが、首相の財政に協力して出さないでいるだけだった。首相も各大臣も、この時点で陸軍大臣の要求を聞くわけにはいかなかった。

かくして、大正元年(1912)11月22日の閣議に上原勇作陸軍大臣の提出した二個師団増設案は、約一週間後の11月30日に再び開かれた閣議において否決された。当時の実業界は、財政の疲弊を知っていたから、政府の決断を支持した。

しかし、閣議で否決されても納得できない時の陸軍大臣・上原勇作がその後取った行動が、内閣総辞職、すなわちたった一人の陸軍大臣の行動で合法的に内閣をつぶせることを証明してしまったという訳です。

その陸軍大臣の行動とは、どのようなものであったのか・・・・それは次回に。

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コメント

帥権干犯問題

>>当時の実業界は、財政の疲弊を知っていたから、政府の決断を支持

これは大東亜の時もそうだったようですねー。
左翼マスコミは財閥の金儲けを戦争の原因にしたがりますが、実際は逆で、国民の激昂とマスコミが戦争をはじめさせるというこどでしょう。

>小楠 さん

そう言えば、日露戦争前も昭和初期も反戦報道では部数が激減したので各紙は「戦争やるべし」に転向した、それは政府の圧力ではなかったと、あの田原総一郎でさえ言っていましたっけ。

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