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終戦前の日本から学ぶべきは何なのか-4   

今回連載している「終戦前の日本から学ぶべきは何なのか」ですが、このタイトルを考えた理由は、実は前回エントリーの最後の部分にあります。
すなわち、
  • 憲法をその「解釈」を変えて運用するのはリスクが大きい。
  • 憲法を不磨の大典とせず、不備があれば見直し、時代変化も鑑みて改正していくべき。
ということで、明治憲法の欠陥から学ぶべきは、憲法そのものへの認識と、運用方法を誤ると弊害がある、ということです。

現行憲法は、その成立過程はともかく明治憲法の欠点は改善されていると言えると思います。ですので、統帥権干犯問題から始まる昭和初期の悲劇の連鎖のようなことは現憲法の下では起きないでしょう。しかし、憲法の曖昧な部分を解釈変更・拡大で運用していけば憲法が持つ抑制効果が薄れ、憲法自体の存在意義さえ薄れてしまうと考えます。
前回、「護憲派の意見にも一理ある」と、ちょっと誤解を招きかねない書き方をしました。それは「"解釈変更の運用は歯止めが利かなくなるから危険だ"という部分だけは合意できる」という意味で、そこからつながる私の意見は護憲はとは正反対、つまり現憲法の曖昧な部分はより具体的かつ現実に即したものに変え、人によって勝手にいろいろ解釈できないようなものにするべき、ということです。
--------
では、引き続き「日本史から見た日本人 昭和編」から引用紹介していきます。
P.36~
「昭和の悲劇」と呼ばれるものの本質は、行政府と並列して独立に動く軍部が出てきたことである。そのような事態になった原因は、個々の政治家の能力や個々の軍人の野心をいくら詳細に追っても解明できない。それは明治憲法の欠陥から生じた事態であり、憲法改正を早めにやっておけば回避できたかも知れないが、不磨性を備えた憲法ではどうしようもなかった。その憲法が明治・大正とよく機能して、政党政治によるデモクラシーまで生むようになったのは、憲法制定の事情を知っている元勲や元老がいて、軍部の暴走を許さなかったからである。
世の中の意見は十人十色。暴走する権力者が有れば、その行き過ぎを制止できる権力も必要です。早い話がバランスですね。明治・大正時代は曖昧な憲法であっても明治の元勲が行き過ぎを制止する権力として機能していた。その元勲達の死後は、明治憲法の曖昧さから来る行き過ぎを制止する権力を誰一人として持っていなかった・・。そして最後の最後で、究極の統帥権保持者の昭和天皇の聖断があってポツダム宣言を受諾することとなった・・・。

「首相」「内閣」が一度も出てこない奇妙な憲法 P.37~
まず、明治憲法では天皇親政、天皇大権が表に出ているために、首相と他の大臣の地位の差があまりない。各大臣は、それぞれの職務において天皇を補弼するのであるから、天皇の目から見れば同じようなものである。
今の憲法の下では、首相の権限は巨大で、国務大臣を好きなようにクビにできるが、明治憲法では、それができない。
そもそも、明治憲法には、首相とか総理大臣とか内閣という言葉が一度も出てこない
(略)
明治憲法によれば総理大臣は、いなくてもよいことになる。天皇は国の元首で、統治権を持っていると第4条に規定されているので、その統治を補佐する国務大臣がおればよい、と言う発想であったのだろう。
しかし、首相に当たる人は、太政大臣として内閣制度が発足するまで三条実美がおり、明治18年(1885)に内閣制度ができると、初代の総理大臣(首相)は伊藤博文がなった。したがって、憲法が発布される4年前から総理大臣はすでに存在していた。そして、憲法の中には総理大臣は何ら規定も言及もされていないのに、その後も存在し続けた。
つまり、明治憲法の中では首相の地位は存在しないのである。ただ、天皇から「政治を補佐する国務大臣を選んでくれ」と言われた人が、何人かの国務大臣を選び、自分がそのまとめ役、つまり総理大臣になった。これを「組閣の大命降下」と言っているが、その手続きは憲法にはない。
(略)
内閣官制によって、首相は国務大臣の首班になることになっていたが、憲法にない地位だから、憲法に明記されている統帥権に対して分が悪かった。
このように、封建制崩壊後の初の憲法とは言え、既に実態とは矛盾があったと言えるようです。
内閣の団結をおそれた伊藤博文 P.39~
では明治憲法の下で、ある大臣が首相と意見が違う場合はどうなるか。
閣内で一人でもそういう大臣がいて、意見の統一ができないときは、内閣は総辞職ということになった。どんな大臣でも、一人頑張れば内閣は潰れた。また、意見を異にする大臣が、自発的に辞職した場合は、別の人を大臣にすることができるわけであるが、事実上、そう言う場合でも、政治問題化して内閣総辞職と言うことがよくあった。明治憲法下における首相の弱体なること、かくのごとしであった。しかし、考えてみれば、首相はそもそも憲法の中には存在していないのだから仕方がない。
要するに、戦前の日本は「社長なき企業」に相当する国家だったのである。

明治憲法の起草の中心にあった伊藤博文は、もとよりこのことを知っていた。彼の『帝国憲法義解』は、かなり詳しくこの条文を解説している。『義解』の中には「内閣総理大臣」と言う言葉も、その任務も出てくる。
彼の説明に拠れば、内閣総理大臣というのは、天皇の意のあるところを受けて、大政の方向を指示し、各大臣の全ての部局を統轄するものであって、責任も重いのであるが、他の大臣と同様に首相も天皇によって同じように任命されたのだから、主要が大臣をクビにすることはできない。

なぜ、このようにしたかと言えば、ある国においては、内閣が団結した一体となっていて、各大臣は各個の資格で参加しているのでなく、連帯責任と言うことで連なっている。この場合は、団結した内閣が天皇の大権を左右しかねない。したがって、我が国の憲法は、首相の権限が強くなる内閣制度を作らないのだ。というのが伊藤博文の趣旨である。

これは、イギリスのことを念頭に置いたのかも知れない。「イギリスの憲政の本質は、しだいに王権を制限していくことである」ということを伊藤博文は知っていたのであろう。

ところが、伊藤博文の明察をもってしても、この明治憲法の条項が、昭和になってからの軍部の横暴を招くもとになるとは予測できなかった。だが、実際、明治憲法下の内閣は、陸軍大臣一人ごねてもないか区が潰れるような弱い制度だったのであり、このような制度では、憲政は護れなかったのである。
このような制度のもと、軍部の暴走を何とか止めようと苦心・努力した人達もいました。しかし、戦争を回避しよう、止めようといくら努力しても、法的にその権力を保持していない以上限界があったのです。昭和天皇でさえ開戦に反対だったのに御前会議では開戦が決議されてしまったのですから。

次回からは、統帥権干犯問題の具体的な部分を引用紹介しようと思います。

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日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎
渡部 昇一
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