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終戦前の日本から学ぶべきは何なのか-2   

本日は「日本史から見た日本人 昭和編」の中の「明治憲法に隠された致命的欠陥」から、引用して紹介いたします。

引用しようとしている元の本がよくまとまっている文章のため、私が一部引用することによってわかりにくくなってしまうかも知れません。かといって本を丸ごと全部引用するわけにも行かないので、エントリー内にわかりにくい部分があったらコメント欄ででも指摘して下さい。


「昭和の悲劇を生んだ統帥権干犯問題」P.22~

統帥権というのは、軍隊の最高指揮権を意味する。明治憲法(大日本帝国憲法)の第十一条には、「天皇ハ陸海軍を統帥ス」とあり、第十二条には「天皇ハ陸海軍ノ編制及ビ常備兵額を定ム」とあり、ついで第十三条には「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及ビ諸般ノ条約ヲ締結ス」とある。これらの条項は明治憲法の天皇大権といわれたものである。
特に第十一条の天皇大権は「統帥大権」と呼ばれ、第十二条の天皇大権は「編制大権」と呼ばれていた。普通の近代国家は行政・立法の三権分立で成り立っているが、軍事は別だとなれば、四権分立と言うことになる
(略)
編制大権の方は予算と絡んでくるから、内閣や議会から全く独立というわけにはいかないが、統帥となれば、軍の作戦そのものであり、全く政府や議会と関係なくやれることである。
そして、実際に軍部が勝手にやり出したのが昭和の悲劇の、まさに本質なのである。
しかし、明治憲法そのものは、軍が政府に関係なく作戦実行したりできるように作られたわけではありませんでしたし、上記の問題が表面化する昭和五年までは特に騒ぐ人もいませんでした。

なぜ、憲法は機能しなくなったのかP.24~
明治憲法は明治二十二年(1889)に発布されたものである。その後、日清戦争(1894-5)、日露戦争(1904-5)と二度の大戦争があり、大正に入ってからも第一世界大戦(1914-18)があって、日本も参加したが、統帥権干犯問題なとはなかった。
日本は他の先進近代国家と同じく、内閣の責任において宣戦し講話し、予算は議会の協賛を得ていた訳なのである。それに対して、軍は統帥権を振り回して、どうこうするかと言うことはなかった。
なぜか、といえば明治憲法を作った人達は、日本は三権分立のつもりであって、統帥権が独立して四権になるなどとは夢にも考えていなかった。そして大正年代まではそのように運用されていた。
ところが、元勲が政治から姿を消した昭和に入りロンドン条約(1930)で日本の軍艦が何隻か削除されることになると、軍人の中でこれに反発する者が多かった。条約を結ぶのは天皇大権(第十三条)で、これは内閣が代行している。しかし、軍備の削減と言うことは、直ちに作戦にかかわることである。つまり、これは統帥権にかかわることであるから、軍縮の条約を政府が結ぶのは統帥権の干犯だ、という主張である。明治・大正時代にはなかった屁理屈である。

こんな屁理屈が通れば、軍部が反対すれば、内閣は国際条約の締結が不可能になってしまう。条約も天皇大権、統帥も天皇大権であるから、全ての分野で天皇が直接に決定する制度ならば、運用できる。しかし、実際上、外交や条約は首相や外相が天皇を補弼して行うし、戦争の指揮は軍部が輔翼して行う。どちらを先にするかの優先順序がなければ、日本政府は外国に対して双頭の蛇になってしまう。こんな事は、明治憲法を作った人達には自明のことだったから、問題にならなかったのである。

つまり、明治憲法が作成された当初は当たり前すぎて問題にさえならなかったことが、第一次世界大戦後の軍縮の時代に入ると、軍縮に反対の軍部は、政府が勝手に軍縮条約を外国と結んでくるのは憲法違反だ、と言い出したわけです。
軍部としては日本の安全保障を憂慮したが故に軍縮条約に反対したのでしょう・・・。
そして、ロンドン条約を結んだ浜口雄幸内閣は、統帥権干犯問題で追及されることになります。

それで、昭和五年(1930)四月二十五日、衆議院本会議で、政友会総務の鳩山一郎は統帥権干犯をふりかざして政府を攻撃した。
俄然、「統帥権干犯」という耳慣れない言葉が世間に流行した。そして、鳩山演説から半年ばかり経った昭和五年十一月十四日、ロンドン条約調印の最高責任者と見なされた浜口雄幸首相は、東京駅において、愛国社の一青年、佐郷屋留雄によって狙撃された。公判記録によれば、佐郷屋青年の凶行の動機は、屈辱的ロンドン条約によって神聖なる統帥権が干犯されたと信じての公憤によるものとされた。

一方、統帥権問題を政争の具にした犬養毅は、翌昭和六年の暮、首相となるが、昭和七年五月十五日海軍の青年将校が中心となって起こした五・一五事件で、「問答無用」と叫ぶ青年将校らに射殺された。そして、犬養毅が戦前の政党内閣の最後の首相であった。統帥権干犯問題は、伊藤博文に始まった日本の政党政治の息の根を止めることになったのである。
(略)
このように見ると、大正デモクラシーの時代を通じて、しだいに日本に根を下ろしてきた政党政治を殺したのは、統帥権干犯問題であることは明らかである。
どうして四権分立とも言えるような憲法の条項があったのか。これに対する責任の多くは、起草の中心人物であった伊藤博文にあったことになる。つまり、四権分立のように解釈できるような曖昧な条文に責任があると考えられるであろう

憲法が曖昧であったために、起草者の考えと異なる解釈が広がっていった結果が、軍の暴走を招き昭和の悲劇につながったというわけです。

法の解釈というのは今でもいろいろな裁判で焦点となるところですが、この明治憲法の問題は、解釈を広げたり変えたりして運用するのは慎まなければならないという重大な教訓と言えるのではないでしょうか?
今の日本で、例えば自衛隊が勝手に行動したりすることはありませんが、政府側が憲法解釈を自由自在に変えて運用することは問題ないのでしょうか?解釈変更するくらいなら改憲する方がいいのでは?と思いますが。。。

次回も「日本史から見た日本人 昭和編」から引用してご紹介します。

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日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎
渡部 昇一
4396312024
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コメント

>>統帥権干犯

コメント有難うございます。
丁度同じような時代の記事になりましたね。
統帥権干犯を持ち出す軍自体が統帥権を干犯していたということでしょう。
明治のころのリーダーの本末を見誤らない意識の高さが徐々に失われて、外に向って一丸となるべきところを、国内で争っているようではねー。



>小楠 さん

戦線不拡大方針にもかかわらず中国で戦火が広がったのは、現地での度重なる挑発行為も原因ですが、冷静に見れば日本側にも反省すべき点はあったのですね。

結局、本当の統帥者である昭和天皇が玉音放送するまで、統帥権の濫用に日本が振り回されてしまったのだと思います。

それにしても、自衛か侵略かの議論や戦争責任者の追求に目を奪われて、日本国内で反省すべき点を見落としていては進歩がありませんよね~。


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