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「東亜新秩序」の一風景 -5   

先日、Let's Blow! 毒吐き@てっくさんのこのエントリーを拝読した時、印象に残った部分がありました。少し引用させて頂こうと思います。
あっしは、日中戦争には多分に侵略戦争的側面があると思ってる。
ただね、日中戦争があったからこそ中国が「半植民地状態」から抜け出せたこと、みんな言わない。
(略)
ガッコで教わるのはこんな感じ・・・
アへン戦争に敗れて以後、列強の清国に対する要求は激しくなり、いたるところ租界(清国の統治権が及ばない地域)だらけとなった。
要するに「清国は半植民地状態だった」とは習うのね、だけど、いつ、どんな経緯で中国が半植民地状態から抜け出たかっていう知識は教わらなかった。 清国が中華民国になって以降、租界の回収は積極的に行われてた。
でね、租界返還の仕上げをしたのは日本なんだよ。
租界ってなんじゃ?」という方は、こちらをご覧ください。当時の地図と写真入りで詳しく解説されていますのでとても参考になります。
「租借地と租界」

で、前にも取り上げたコリン・ロスの「日中戦争見聞記―1939年のアジア」の中に、租界の様子を表した部分があったのを思い出したので、またまた引用してみたいと思います。

上海の栄光と悲惨 P.204~

上海の共同租界内で日英両軍の警備分担区を隔てる細かい蘇州河にかかるガーデンブリッジの中央部に、日本軍の歩哨が立っていた。歩哨のかたわらを中国人達が果てしなく通っていた。自転車に乗っているものは自転車から降り、自動車は人間と同じ速度にスピードを落とした。誰もが、富者も貧者も、地位の高いものも低いものも、小柄で貧弱な日本兵の前に来ると一様に深々とお辞儀をした。
日本兵は直立不動の姿勢で前方を見つめ、天皇の代理人として、この卑屈な挨拶を受けていた。

橋の末端では-ここも共同租界内であった-イギリス兵が監視していた。ダラム(イングランド北東部の都市)連帯所属のこの大男の兵士は、日本兵よりも頭一つ半ほど大きかった。だが、このイギリス兵に注意を向けるものは一人としていなかった。人々は無視したように彼の脇を流れた。彼はただ、先を急ぐ人々の群れに突き飛ばされまいと身構えているようであった。彼はいささか不愉快な表情を見せて、ある時は人々の群れに、ある時は日本兵に目を向けた。その顔は、「一体、何のために俺はここに立っていなくてはならんのか?」と問うているようであった。

同じような想いは、通行人の胸にも去来した。いったい、何のためにイギリスは、すでに失った東アジアの前哨にしがみついているのか?イギリス人以外の人間の思いは、どうやら当のイギリス人には思いも及ばないようであった。
ガーデンブリッジ上の日英の歩哨の役割と態度が両国の力関係を象徴していることを、イギリス人にはわからない。日本兵の足もとにはありとあらゆるものがひれ伏すが、イギリス人など、中国人の苦力(クーリー)さえも無視できるものと思っている。現実が過酷すぎて、イギリス人はこのような急変が飲み込めないらしい。

イギリス人が単におのれの支配を絶対確実と思ったばかりか、彼らが奪った市街地区の住民よりも当然はるかに優れていると思ったあげく、租界の公園の入り口に「犬と中国人は立ち入り禁止」と掲げたときから、すでにどれほどの時間がたっているだろう?イギリス人の行動は、特別な悪意や、中国人に対する侮蔑の感情のためではなかった。私に言わせれば、それは天真爛漫な無邪気のなせるものだ。
イギリス人は他の肌色をしたあらゆる人種と同様に中国人をはるかに見下し、「有色人種」がこうした扱いに憤慨するかもしれないと考えたことすらなかった。だからこそ、つい最近まで共同租界の大ビルの白人専用エレベーターからは、たとえ上海市長でも中国人が閉め出されていた。
(略)
確かにイギリスは、アヘン戦争以後、中国から上海を奪ったが(公式には租界と港湾権を委譲されたのだが)、当時、上海は沼沢地の多い低地にある貧しい漁村にすぎなかった。実際に手を下して公園施設を作り、高層ビルを建築したのはイギリスである。その後、欧米各国も手を貸したし、最後には日本も加わった。
イギリスは、中国から奪った港を各国に解放し、イギリス租界を共同租界に切り替えた。その真意は、博愛精神とはほど遠く、自由貿易を標榜するイギリスの思惑から来ている。
(略)
だが、イギリス主導下の共同租界は、今日ではすでに昔日の面影はない。共同租界の往時の栄光を知るものには、それは一目瞭然であろう。東アジアにおける白人の輝ける一大貿易中心地、イギリスの権力の聳え建つ城塞はもはや昔日の残映にすぎない。
国際都市上海は、ただ日本のお慈悲にすがって生きている。今日、揚子江を航行すれば、すぐにずらりと並んだ日本の軍艦の脇を通過することになる。他を圧して巨大な巡洋艦、水雷艇、輸送船、そしてありとあらゆる種類の補助艦が、数珠繋ぎになって停泊している。

このような印象的な日本海軍の結集に対しては、英米仏の数隻の河川用の砲艦はまったくみじめだ。かつて英米仏はこれらの砲艦で東アジアに強力な睨みをきかせていたが、いまでは、おずおずと湾岸に身を寄せているだけだ。
今なお堂々たるイギリスの高層ビル、ホテル、銀行、それに大商社ビルが川岸に聳え建っているが、もはや何の意味もない。かつて上海の富を生み出した後背地域(ヒンターランド)はいまや日本の手中にある。日本人が黄浦江を管理し、日本の許可なくしては一隻たりとも上海の先へ進むことはできない。

当時の光景が目に浮かぶような内容ですが、日本であまり触れられていない部分※にも光を当てるお役に立てればと思い、紹介しました。
(※ 単に私が知らなかっただけかもしんない(汗))

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日中戦争見聞記―1939年のアジア
コリン ロス Colin Ross 金森 誠也
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