日本が外国とつきあう上で知っておいた方がよいと私が感じた部分からです。
筆者は、世界的に見ても日本人の外国観は独特であり、それを外国との根本的な違い「ファクトとフィクションの対比」として表現しています。
(日本がファクト(事実)で、外国がフィクション(虚構))
これだけだとわかりにくいですが、具体例として捕鯨問題を挙げて解説されています。
P.140~ちょっと話がそれますが、以前に紹介した大川周明も欧米の捕鯨について書いています。大西洋の鯨がほとんど捕り尽くされ、その後北太平洋に鯨が多いことがわかってアメリカの捕鯨船がどんどん西に進み日本近海に出没することも多かったとか。なんで西洋人がそんなに鯨が必要だったかというと、ろうそくの原料にする油を取るためであり、何でろうそくがそんなに必要だったかというと、植民地からの富の収奪で生活が豪奢となり毎晩の宴会の場を真昼のように明るくするためだったとか・・・。
日本人は国内が比較的等質であったため、フィクションよりもファクトを重視し、それに基づいて考え行動する傾向が強いのです。ファクトを重視する文化とは「論より証拠」を求めるもので、これに対してフィクション重視とは「証拠より論」、つまり「言葉」が優先する文化といっても良いでしょう。
(略)
ファクトつまり事実に基づいて考え行動する日本人は、学者や専門家で構成されている国際捕鯨委員会の科学小委員会で資源の回復が著しいミンク鯨などは捕鯨の対象にして構わないと主張し、その考え方の正しさはいつも認められています。しかしいろいろな思惑があって捕鯨全面禁止の声を上げる欧米側が、鯨を食べるどころか見たこともないアフリカの小国などの票をたくさん買収して多数派工作をした上で、総会においてなんだかんだと日本の提案にケチをつけていつも否決してしまうわけです。
歴史的な事実としては、世界の鯨を大西洋から始めて太平洋にまで進出して百年以上も取りまくり、しかも自分たちの欲しい鯨油のとれる部分以外は邪魔だといって海に捨ててしまうような、貴重な生物資源の無駄遣いをやり続けてきたのは欧米人なのです。そしてそのことが、いろいろな種類の鯨が激減する原因ともなったのです。
このエピソードから、私が何を言いたいのか。欧米人や中国人そして韓国朝鮮人をも含めたユーラシア文明に属する人々は、そのときそのときの都合で、前に自分たちがした酷いことなどすっかり棚に上げ、平然と相手を非難攻撃することを何とも思わないということです。理屈はどうにでもつけて、自分たちの目下の正当性を臆面もなく主張するフィクションの文化なのですね。日本人から見ると本当に「自分のことは棚に上げて」「臆面もなく良くそんなことが言えたものだ」「盗っ人猛々しいにもほどがある」とあきれるほどです。毛沢東が農業大躍進と紅衛兵革命で六千万ともいわれる中国人を殺し、さらにチベットでも大虐殺を行って、チベット文化を徹底的に破壊したのに、中国政府は一切これに触れず、「日本軍が南京で50万も虐殺した」といつまでも騒ぐことなどがその一例です。筆者は上述のようなもう一つのわかりやすい例として、イスラエルのことを挙げています。
(略)
それに比べて日本人は事実つまり共有されているファクトを前提として、その上にわずかなフィクション性を持つ議論にしか慣れていません。というのも国内がこれまで文化的に比較的等質であったため、自分が信じてもいないこと、あるいは嘘だとはっきり自覚していることを、いかにも本当らしく筋を通して述べ立てることは、国際レベルから見ると全く経験不足なのですね。
良く日本人は相手を理路整然と言い負かす議論、たとえば英語でのディベイトが下手だから、この力をもっとつけなければ国際交渉に負けてしまうといわれますが、この力は簡単につくものではありません。単に外国語が巧く使えるかどうか以前の、もっと深いところに問題があるからです。
ディベイトとは相手を言い負かすためには事の真意を問わず、ただ巧い屁理屈を並べ立てる技術、言語ゲームに他なりませんから、日本人が弱いのは当然なのです。アメリカの裁判では、明らかに有罪な人間を言葉巧みに無罪にしてしまう弁護士が有能とされるのも、社会全体がフィクションに対して、元々日本ほど抵抗を感じないからなのです。
「ここは大昔自分たちが住んでいたところだ」とか、「自分たちの信じる神様が、ここはおまえ達の土地だと仰せられた」という理屈、つまり自分たちが正しいと信じること、つまりフィクションを大声で世界に向かって絶えず言い続けなければ、現にパレスチナにはアラブ人が長らく住み着いているという事実、すなわちファクトに負けてしまう、と。
イスラエルの存在は彼らの主張するフィクションの中だけにあるのですから、そのフィクションを言い張ることを止めたとたん、国の存在自体が消えてしまうわけです。
ここまで読まれた方は、おそらく日本のすぐそばの国のことが頭に浮かんでいると思います(笑)
日本のように他国に侵略された経験がほとんどない国に暮らしているから、他国のこのような行動が奇異に映るのでしょうね。日本以外の多くの民族は、外国から侵略されて新しい統治者が現れた時、生きていくためには本音や事実がどこにあろうと、その状況に合わせた言動や振る舞いをしなければならなかったからこそ、事実を主張することなどあまり意味がなくなってしまったのでしょう。
過去に日本が関わった戦争の開戦に至るまでの経緯を見てみると、いかに外交に難儀してきたかがよくわかります。明治維新以来、驚異的なスピードで国力が欧米に追いついてもなお、交渉の場面ではかなわなかったといえそうです。
外交では上記の様なことををわきまえて、日本人らしさを脱ぎ捨てて望まなければならないのかもしれませんね。さもないと、いつか本当ににっちもさっちもいかない状況に出くわすことになるかもしれません。なにしろ、他国は事実関係は重視しないのですから、いくら日本が正論を唱えてもむなしいだけ、ってことも・・・。
ましてや、どこかの国が過去のことを取り上げて日本を批判するのを聞いた政治家が「他国に配慮しなければならない」なんて発言したら、それだけでスキを見せているのも同然ですからね。
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日本人はなぜ日本を愛せないのか
鈴木 孝夫