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「東亜新秩序」の一風景 -4   

「日中戦争見聞記 1939年のアジア」からの引用は今回で一区切りにしようと思います。このエントリーからご覧になった方は、是非下記も読んでみてくださると嬉しいです。

「東亜新秩序」の一風景 -1 [2006/08/04]
「東亜新秩序」の一風景 -2 [2006/08/07]
「東亜新秩序」の一風景 -3 [2006/08/08]

あと、1ヶ月ほど前にもこの本から引用したエントリーがありますので、よろしければこちらもどうぞ。
読書レビュー「日中戦争見聞記 1939年のアジア」-1  [2006/06/28]

で、最後に引用する部分は日本軍が爆撃した重慶の様子です。これまで引用した箇所とは違い、日本が中国大陸で行った負の側面です。
P.264~
人々は日本軍の飛行機がまさかこんなところまで飛んでこようとは思ってもいなかった。とにかく、防空体制が貧弱なまま、ある日、日本の爆撃機が上空に現れたというわけだ。
その結果は、惨憺たる有様であった。中国の都市は、日本の都市ほど軽量につくられていない。中国では、木材と紙の使用は日本ほどではないが、それでもかなり多量である。いったん火災が発生すれば、消火は容易ではない。しかも、中国の住家は、日本よりも密集して建てられている。しかし、最大の難点は、重慶が狭い半島状台地の上にあることであり、市街地域から出る道路はたった一本である。
爆弾が前後左右に落下し、街全体があかあかと炎上しているなかで、争乱状態になった群衆たちが、このたった一本の道路に押し寄せた。相当の死傷者が出たのはいうまでもない。その数は、数千にも達した。

日本軍機は一回目に引き続き、間髪を入れず二回目の空襲を仕掛けてきた。被害は甚大であった。もし日本がさらに二度、三度と波状的に空襲をしかけていたら、おそらく中国側の精神力は粉砕され、中国は降伏したであろう。だが、日本にはその意志もなかったし、余力もなかった。いずれにしても、日本側は空襲をしばらく中断し、中国側に態勢立て直しと再武装のチャンスを与える結果となった。蒋介石のがむしゃらなエネルギーは、徹底した対策を講じさせた。重慶全市が、一丸となって防空壕建設にとりかかり、大火の拡大を食い止める幅の広い防火ゾーンも設けられた。消防隊、救急隊、救助隊つまり最低限必要なものは、すべて組織された。次に日本軍機が来襲したときには、最悪の事態は何とか食い止められ、死傷者数は減少した。
それ以後、日本軍機は繰り返し繰り返し来襲し、中国側も繰り返し繰り返し首都防衛に取り組んでいる。

P.282
庭園から城壁の上に出る門があり、この付近がもっとも悲惨であった。なぜなら、領事館の建っている岸壁の下で地獄の炎を猛り狂ったからである。最初、市区の反対側で火の手が上がり、炎は風にあおられて城壁の上に延びた。人々は地獄の炎から身を守ろうとした。彼らは結局岸壁のふもとに集まり、閉じこめられたことを悟った。生き延びるための絶望的な登攀が始まった。彼らは、先を争ってはしごを組み、家々の屋根から城壁の鋸壁上に逃げようとしていた。領事館から人々の苦闘する姿が見え、救助の手が差し伸べられた。ロープがつり下げられ、シーツが大至急つながれた。だが、炎の方が速かった。火焔が前へ前へと迫った。ロープにしがみついている人々も炎にとらえられた。城壁の上部にいる男たちは、もがく人々を引っ張り上げようと必死に努力を続けた。だが、男たちがどんなに死にもの狂いでがんばっても、一人として引っ張り上げることはできなかった。もう一歩というところで、人々は次から次へと握っている手をロープからはなしてしまった。炎になめられ、煙に巻かれて、もうこれ以上持ちこたえられなかったのである。
彼らは、奈落の底に落下した。その奈落の底から、今や退散せねばならなくなった城壁上の男女のところに焼けこげる恐ろしい人間の臭いが立ち上ってきた。
皮膚を焦がす暑さは耐え難かった。それに城壁の上部の男たちもおのれ自信の脱出を考えねばならなかった。

この重慶爆撃の様子についてはネット上に短い動画がありましたので、参考までにリンクしておきます。
重慶市街地
重慶爆撃
(上記動画の元ページはこちら

この重慶爆撃は昭和13年2月から約3年間、総計約15,000個の爆弾を投下、死者は約1万人(3万人説もあり)だったそうです。下記の参考リンクにもありますが、「ほとんど無抵抗の都市にこれだけの攻撃を加える軍事基地が有ったとは考えられず、残念ながら無差別爆撃であったと言われても、よほどの証拠が無い限り反論の余地は少ないものと思います。」とあります。
こんな事をしたら、いくら「東亜新秩序」を唱えて、かつ賛同した中国人がいたにせよ、日本が憎まれるのは議論するまでもなく当然といえるでしょうね。(かといって、60年以上たった現在においても行われる、暴力的な反日デモを正当化するかどうかは別問題ですが。)

このあたりの中国大陸における日本の行動の矛盾が、やはりどうしても理解し難いですね。

参考リンク:
Web版「正論」・Seiron「日本軍による重慶爆撃について、具体的なことをお教え頂きたいのです。」
旧日本軍が行なった重慶爆撃は無差別爆撃なのですか?そしてこれが無差別爆撃の先鞭をつけたとは本当ですか?
重慶爆撃(Wikipedia)

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日中戦争見聞記―1939年のアジア
406159608X
コリン ロス Colin Ross 金森 誠也
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コメント

連載お疲れさま

拝見しました。
重慶爆撃、南京の嘘をいつまでも言ってるより、こちらを題材にした方がまだ信憑性があるかも知れませんね。ことのいきさつ、これまでの流れを色々また調べてみたいです。ありますからね。こんなこともありますからね。
http://vaccine.sblo.jp/article/524298.html

>小楠さん
なるほど、重慶爆撃も被害者数に諸説出ているようですが日本軍がこのような執拗な都市爆撃で多くの無実の中国人を殺してしまったことは間違いないようですしね。
いわゆる「南京虐殺」よりも重慶爆撃の方が日本での知名度が低いのは変な気がしてきました。私自身2004年のサッカーアジアカップでの反日暴動まで重慶爆撃を全く知りませんでしたから・・。

「シナ大陸の真相」は最近買ったばかりでまだ読んでいませんが、小楠さんが引用されいる箇所も見逃せないですね。
蒋介石がダム(?)を爆破・決壊させて大洪水を起こしたのを日本軍のせいにしていたという話を思い出しましたよ。

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