ところで、気が付いたらカウンターが10,000を越えていました。今年の6月から始めたので約5ヶ月かかりましたね、今まで拙Blogにお越し頂いた方には御礼申し上げます<(_ _)>
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「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(カエサル)
「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」 (内田 樹)
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Archive 2006年10月 |
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最近は固いエントリーが続いたので、ちょっと一息入れてこの本から少しご紹介してみようと思います。
そう言えば、「日本についての豆知識」というカテゴリーを作っていたことさえすっかり忘れていましたし(^^ゞ
「考察NIPPON」ですから、日本についてのこんな話題もたまにはいいでしょう。
まず、『やまと言葉』って何? ってな方もいらっしゃるでしょうから、先にちょっとだけ解説部分を。
P7.~ちょっと考えてみればわかることですが、中国から漢字が伝わる前から日本に住んでいた人は日本語で会話していたわけで、後から入ってきた漢字はその日本語に当てはめていった、ということなんですね。
日本は歴史始まって以来、たくさんの外国語を受容してきたので、それらをごちゃまぜにして考えてみても、日本人の基本の考え方は出てこない・・・
(略)
そこで必要なことは、基本の日本語に限定して、日本人の思考や感情を考えることから始めること・・・
(略)
今日、私達は漢字とかなを交えて言葉を書きます。その時の漢字とは中国からの借り物ですから、漢字で日本語を表現した瞬間に、もう日本人古来の考えからずれてしまいます。中には漢字の当て字というものまであって、全く違う意味になってしまうものもあるのです。反対に、かなで書けばことはすむのかというと、「曖昧」のように、本来、漢語のものもある。
だからこそ、基本の日本語で考えようと言うことになるのですが、それは、いわゆる「やまとことば」です。学校で音と訓の区別を習ったと思いますが、その訓が、ほぼ「やまとことば」です。
そもそもの日本人の心を知るために、まず漢字を取り払ってみましょう。「は」とは、歯でも葉でも端でもあるのですから、「漢字で書くと別だ」という考えを捨てて欲しいのです。
P.21~
「からだ」は、「から」に接尾語の「だ」が付いたことばです。「から」というのは幹のことで、死んだ体の「なきがら(亡骸)」、稲の茎の「いながら(稲幹)」、干した芋の茎の「いもがら(芋幹)」、そういう「から」と同じ。根幹のことですから、「から」とは、「そのもの」という意味ももちます。
ところで、体のことを「み(身)」ともよびますが、「からだ」と「み」はどう違うのでしょう。
「み」は、果実の実と発音が同じです。「からだ」は、それこそ木の幹が伸びて枝が出るように黙っていても成長しますが、「み」は自らの努力なしには成熟していくことが出来ません。さらに「み」は、努力して経験を積んだ成果として、木の実のように「みのる」ものですから、「からだ」のように、事故やけがで損なわれることはない。
例えば、よくない行いから悪い結果が出ることを「身から出た錆」とは言うけれど、「体から出た錆」とはいいませんね。ほかにも、「身をもち崩す」「身の上話」という時の「み(身)」は、まさにその人自身の中身を伴いますが、一方「からだ」は、体をこわす」「体が丈夫」などと、身体の機能や状態を表すのに使います。
さて、体からは手足が突き出ています。古代人は、この手足を「えだ」とよびました。木の幹から枝がつんつんとつきだしている様子が目に浮かびませんか。
P.117~大東亜戦争開戦後、戦況が悪化しても統合者不在の問題は尾を引きます。
政府が「不拡大方針」と国民や世界に言い続けているのに、出先の軍隊はどんどん戦争を拡大している。いったい、国の戦争指導はどうなっていたのであろうか。この時の戦争指導ほど、明治憲法の欠陥が露骨に出たことはない。そして、それは敗戦の日まで続くのである。
(略)
大本営のかかわることは統帥権の分野のことであり、それは戦場の戦略、つまり「用兵作戦」である。これに対して政府が外交・内政で行うのは政略である。この政略と戦略の両者を統合調整することは「戦争指導」と呼ばれていた。今日では「国家戦略」、「大戦略」と呼んでいるものである。
戦略は大本営が担当し、政略は政府が受け持つことになるが、この両方をあわせた「戦争指導」はどこがやるか、と言うことが問題になる。
アメリカなら大統領、イギリスなら首相、ナチス・ドイツなら総統、ソ連なら書記長である。今の日本なら首相であるが、明治憲法では天皇御一人だけであり、「戦争指導」に関する固有の輔翼・輔弼期間はなかった。法制上のどこにも規定されておらず、また慣行的にもどこにも存在していなかった。
日華事変から大東亜戦争へと、日本は当時の流行語に従えば全体戦に突入した。戦うのは戦場の軍人だけではない。銃後を守る婦人も工場の工員もみんな戦っているのだ、と言うのが全体戦である。女工員も産業戦士などと言われた。まさに全体戦の時代であるからこそ、政略と軍略を統合調整する戦争指導が必要なのに、それをやる人は名目上は天皇になっているだけで、実は誰もいなかったのである。
大臣一人がごねただけで内閣が潰れるような制度において、首相にそんな大それた事ができるわけはない。軍人がいくら頑張っても国家戦略には外交も内政も産業政策もある。それなのに日本は政略と戦略の統合者はいなかった。それどころか、戦略の中でも、陸軍と海軍の意見をまとめうる人もいなかった。
統帥権に”復讐”された軍部 P.128~
戦局の展開がソロモン群島上空の日米航空決戦によって決まるということは軍首脳の誰にもわかってきた。そして、傾いてきた日本の体勢を立て直す唯一の方法とは、零戦を中心とした海軍航空隊に全資材を集中し、反抗してくるアメリカ軍を押し返すことができるほど強化することであった。
これを実行に移すため、翌昭和19年(1944)の1月に陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長の四者会談となったが、陸軍と海軍は航空機生産のための資材の配分比率をお互いに譲ろうとせず、結局、それまで通りの山分けに終わった。
資材は同量でも海軍機の方が平均的に重いので、機数からいえば、陸軍機二万六四〇〇機、海軍機二万四四〇〇機と、海軍機の方が二〇〇〇機も少ない勘定になったからおかしい。陸軍と海軍が対立したら、それをまとめるリーダーはいないのである。
(略)
政府と軍が対立したときは、統帥権を持ち出せば軍が勝った。特に陸軍はそうして一種のリーダーシップを発揮してきた感があった。しかし、陸軍と海軍が対立したときはどうなるか。両方とも統帥権を持っているわけだから、陸軍も海軍に対しては、政府に対するようには文句は言えない。せいぜい「今まで通りにしましょう」と言えるぐらいのものである。戦場がマーシャル群島に及んだ時点でもそんな具合だったのである。
統帥権干犯問題によって、陸軍は政府からリーダーシップを奪ったが、なんとその問題は陸軍からもリーダーシップを奪っていたのであった。軍といっても陸軍と海軍があり、いずれも対等ということになっていて、共通の長を持たなかったからである。当時の首相は陸軍大臣東条英機であり、彼は陸軍大臣も兼ねていた。その彼も海軍に命令することはできない。
(略)
陸軍と海軍では作戦に対する考え方が違っていた。二つの統帥部の考えの違うことは、議論しても無駄だし、誰もリードできない。
P.133~
昭和五年に出てきた統帥権干犯問題は、あたかも広がりゆく癌細胞の如く、日本の政治機構を確実に侵してきて、ついに統帥部そのものまで動かなくしてしまったのである。
(略)
人類史上最初の原子爆弾が我が国の上空で二度も炸裂したとき、頭がいくつもある八岐大蛇状態では身動きがとれず、ついに、天皇補弼(政略)の責任者も、輔翼(軍事)の責任者もみんな責任を投げ出した格好になった。
この時に初めて日本帝国の真の、そして唯一の大権所有者たる天皇は大権を行使された。ポツダム宣言受諾ご決断がそれである。
このような状態では、日露戦争の時のような絶妙なタイミングの講話など望むべくもありません。
軍が悪い、いや政府が悪い、いや首相が悪いんだ・・・と言う議論をしても、「木を見て森を見ず」なのかも知れませんね。
しかし、いくら日本の体制がこんな状態だったとはいえ、外部から日本への様々な圧力、謀略、差別がなければ、あのような戦争にはならなかったでしょう。そのあたりの渡辺昇一氏の説を、引き続きこの本から紹介したいと思います。
ただ、しばらく堅い内容のエントリーが続いたので、一旦小休止して、今までとはちょっと趣の異なる本から少し紹介しようと思います。(もちろん、日本について書かれた本です(^^))
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コメント・御意見・TBも大歓迎です。お気軽にどうぞ。
安倍首相「核実験失敗でも制裁行う」…参院予算委前のエントリーで憲法の解釈変更への疑問を書きましたが、北朝鮮を巡る情勢変化と憲法改正論議のスピードの差がありすぎるので、現状ではやむをえないでしょうね。しかし、これは自国の安全保障と憲法改正論議を先送りにしてきたツケと考え、今後積極的かつ前向きな議論がなされることを望みたいものです。
集団的自衛権について、首相は「研究を行った結果、我が国が禁止する集団的自衛権の行使ではない、という解釈を政府として打ち出すことも十分ある」と述べ、個々のケースで事実上の政府解釈の変更があり得るとの考えを示した。
戦後日本独立までの過程で、自らが積み残した問題を解決して欲しいと、後の日本人にメッセージを残しています。-------------------------------------
「改革すべきことがまだまだある。甲論乙駁の間に適切な制度を生んでゆかねばならぬ。徐々に、しかも適切に、時間をかけて。何事も永久不変に妥当な制度などがあるはずはない。」
(吉田茂著「回想十年」より)
P.46~
二個師団増設案を閣議で否決された陸軍大臣上原勇作中将は、今更事案を撤回するわけにはいかないと感じた。この案は、陸軍次官の岡市之助や軍務局長の田中義一と練り上げたものであり、陸軍の大御所の山縣有朋はじめ、陸軍の長老達の諒解を得たものであったからである。それで、師団増設案が閣議で難行した時、山縣有朋は、財政に詳しい元老の松方正義をも動かして、西園寺首相が陸軍の要求を認めるように説いた。
西園寺や他の大臣達も、必ずしも師団増設に絶対反対というわけではない。財政が問題なのであった。そこで、師団増設を一年だけ延期するという妥協案が出された。しかし、上原勇作は譲歩する気がなかった。
P.48~この事件の背景にある元老達の人間関係とその影響についての著者の推論は、非常に興味深いものがありますが、長くなりそうなので省きます。
それまでは国務大臣が辞表を出すときは -病気などでその例はあった- 総理大臣の手元に出すことになっていた。
(略)
ところが、国務大臣である陸軍大臣が直接に天皇に対し、帷握上奏(いあくじょうそう:参謀総長が直接、天皇に上奏すること)の例になたって、辞表を天皇に出したらどうなるか。
そんな例はそれまでなかった。西園寺首相は翌12月3日、参内して天皇に行政整理の現状を報告し、その後直ちに山縣有朋を訪ねて後任の陸軍大臣の推薦を頼んだが、山縣はうんと言わなかった。
その時点まで西園寺は、上原が直接、天皇に辞表を出したのに驚いたにしろ、後任の陸相を差し替えればよいと思っていたらしい。ところが、陸軍の大御所が後任を推薦しないという事態に直面したとき、事件の重大さを悟った。
(略)
陸軍が(大臣を)出さないといえば、それで組閣はできない。西園寺首相は12月5日、青山御所に参内し、内閣不統一の責任を負って辞表を大正天皇の奉呈した。
これで、陸軍中将一人で倒閣できると言うことが、天下に明らかになった。しかも、上原のやったことは明治憲法では可能なことだったのである。ただ、誰もこれまで気づかないことだったのだ。
軍部の横暴に対抗しえた大正の「憲政」P.49~その後、米英の建艦競争に危機を感じた海軍も組閣に影響したりと、微妙な状態ながらも、統帥権干犯問題が起こるまで日本の政治家達はまがりなりにも軍部の暴走を抑えることができていた。しかし、問題の本質は変わらない・・・
(略)
しかし、大正のはじめのこの事件は、昭和の初めの事件とは似ていながらも結果が違っていた。それは、この憲法の弱点を巧みについた軍部の倒閣行為に対する反撥力の強さと、修復力の見事さである。
大正二年(1913)1月5日、西園寺内閣が総辞職すると、翌日に、すぐ宮中において元老会議が行われた。出席者は山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌の4人だったという。元老の中には、大山元帥をはじめとして、西園寺に同情し、上原の独走を危険と見る人が多く、山縣も実際に内閣が大臣一人のために潰れるのを見て、反省したかのごとくである。
(略)
上原勇作は期せずして、議会の内外に護憲運動の大きな盛り上がりを起こさせたことになる。軍部を抑えなければ、立憲政治は成り立たないことがみんなにわかったのである。
結局、陸軍閥の元老が良識を持てば憲政は円滑に動き、我意を通そうとすれば内閣は倒れる。憲政の円滑なる運営は、憲政という制度に補償されたものでなく、元老という個人の良識次第であったことがよくわかる。元老、元勲達は着実に老いてゆく・・・。
昭和史の運命を決めた山縣の策謀 P.42~
しかし、日清戦争以後、軍部が日露戦争を覚悟せざるとえない時局の展開になってきた。それで、明治31年(1898)年6月、大隈内閣(首相大隈重信、内務大臣板垣退助のいわゆる隈板内閣(わいはんないかく))が成立するに当たって、軍部はその成立を阻止しようとした。隈板内閣は、かねて反軍的な色彩の人達からなる政党内閣であるから、軍事予算を十分出してくれないだろうと心配したのである。
軍部は大臣を出さないことによって、この内閣を流産させようとしたのであった。また、大隈も板垣も、陸海軍の大臣がいないのでは組閣はできないと断念しかかったのであるが、明治天皇のご意向もあって、軍も折れた。
明治天皇の詔勅と言っても、誰かが(おそらく伊藤博文が)補佐したわけである。
P.45~
明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御されると、皇太子嘉仁親王が践祚(せんそ:皇位継承)され、大正と改元になった。そして、その年の暮れには、陸軍大臣の単独辞職で、明治憲法の条文の論理的帰結により内閣が総辞職するという事態が、早速起こったのである。
当時の首相は西園寺公望であり、財政の整理を主眼として政策を進め、軍備の拡張は急がない方針であった。しかし、陸軍はこれに不満であった。
というのは、2年前の明治43年(1920)には日本は韓国を併合したため、国防の範囲が広がったからである。とりあえず、内地から一個師団版の兵力を朝鮮半島に派遣することにしたが、もちろんそれで充分というわけではなかった。
イギリスのインド駐在軍は、インドに財源を持っていたそうであるが、韓国駐在の日本軍は日本人の税金で維持しなければならなかった。ここにおいて、首相の方針と陸軍の要求は対立した。
陸軍にしてみれば、日露戦争に勝ったものの、ロシアはその後も満洲に対する野心を捨てたわけではなく、シベリア鉄道を整備し、日露戦争の時よりも、はるかに迅速に大軍を満州北部に動員できる体制を完備している。日本の駐韓の一個師団は、半島の特別な事情のため、100カ所にも分散して駐屯させなければならなかった。陸軍大臣の二個師団増設の要求は、ここから生じたのである。
一方、首相から言えば、日露戦争は勝ったもののロシアから賠償金が取れたわけでなく、国民経済に与えた大戦争の傷は治っていなかった。それで、政府の支出を減らすことにし、各省には9パーセントから15パーセントの支出削減を行わせたが、陸軍省は3パーセント足らずの整理しかなかった。
こうした行政改革の時に、二個師団増設を要求するのは、別の言葉で言えば、他の各省が節約した分を陸軍に使わせてくれ、と言うのと同じ事である。
それに、陸軍の要求を呑めば、海軍も拡張案を出して来るに決まっている。海軍大臣斉藤実はすでに案を持っていたが、首相の財政に協力して出さないでいるだけだった。首相も各大臣も、この時点で陸軍大臣の要求を聞くわけにはいかなかった。
かくして、大正元年(1912)11月22日の閣議に上原勇作陸軍大臣の提出した二個師団増設案は、約一週間後の11月30日に再び開かれた閣議において否決された。当時の実業界は、財政の疲弊を知っていたから、政府の決断を支持した。
P.36~世の中の意見は十人十色。暴走する権力者が有れば、その行き過ぎを制止できる権力も必要です。早い話がバランスですね。明治・大正時代は曖昧な憲法であっても明治の元勲が行き過ぎを制止する権力として機能していた。その元勲達の死後は、明治憲法の曖昧さから来る行き過ぎを制止する権力を誰一人として持っていなかった・・。そして最後の最後で、究極の統帥権保持者の昭和天皇の聖断があってポツダム宣言を受諾することとなった・・・。
「昭和の悲劇」と呼ばれるものの本質は、行政府と並列して独立に動く軍部が出てきたことである。そのような事態になった原因は、個々の政治家の能力や個々の軍人の野心をいくら詳細に追っても解明できない。それは明治憲法の欠陥から生じた事態であり、憲法改正を早めにやっておけば回避できたかも知れないが、不磨性を備えた憲法ではどうしようもなかった。その憲法が明治・大正とよく機能して、政党政治によるデモクラシーまで生むようになったのは、憲法制定の事情を知っている元勲や元老がいて、軍部の暴走を許さなかったからである。
「首相」「内閣」が一度も出てこない奇妙な憲法 P.37~このように、封建制崩壊後の初の憲法とは言え、既に実態とは矛盾があったと言えるようです。
まず、明治憲法では天皇親政、天皇大権が表に出ているために、首相と他の大臣の地位の差があまりない。各大臣は、それぞれの職務において天皇を補弼するのであるから、天皇の目から見れば同じようなものである。
今の憲法の下では、首相の権限は巨大で、国務大臣を好きなようにクビにできるが、明治憲法では、それができない。
そもそも、明治憲法には、首相とか総理大臣とか内閣という言葉が一度も出てこない。
(略)
明治憲法によれば総理大臣は、いなくてもよいことになる。天皇は国の元首で、統治権を持っていると第4条に規定されているので、その統治を補佐する国務大臣がおればよい、と言う発想であったのだろう。
しかし、首相に当たる人は、太政大臣として内閣制度が発足するまで三条実美がおり、明治18年(1885)に内閣制度ができると、初代の総理大臣(首相)は伊藤博文がなった。したがって、憲法が発布される4年前から総理大臣はすでに存在していた。そして、憲法の中には総理大臣は何ら規定も言及もされていないのに、その後も存在し続けた。
つまり、明治憲法の中では首相の地位は存在しないのである。ただ、天皇から「政治を補佐する国務大臣を選んでくれ」と言われた人が、何人かの国務大臣を選び、自分がそのまとめ役、つまり総理大臣になった。これを「組閣の大命降下」と言っているが、その手続きは憲法にはない。
(略)
内閣官制によって、首相は国務大臣の首班になることになっていたが、憲法にない地位だから、憲法に明記されている統帥権に対して分が悪かった。
内閣の団結をおそれた伊藤博文 P.39~このような制度のもと、軍部の暴走を何とか止めようと苦心・努力した人達もいました。しかし、戦争を回避しよう、止めようといくら努力しても、法的にその権力を保持していない以上限界があったのです。昭和天皇でさえ開戦に反対だったのに御前会議では開戦が決議されてしまったのですから。
では明治憲法の下で、ある大臣が首相と意見が違う場合はどうなるか。
閣内で一人でもそういう大臣がいて、意見の統一ができないときは、内閣は総辞職ということになった。どんな大臣でも、一人頑張れば内閣は潰れた。また、意見を異にする大臣が、自発的に辞職した場合は、別の人を大臣にすることができるわけであるが、事実上、そう言う場合でも、政治問題化して内閣総辞職と言うことがよくあった。明治憲法下における首相の弱体なること、かくのごとしであった。しかし、考えてみれば、首相はそもそも憲法の中には存在していないのだから仕方がない。
要するに、戦前の日本は「社長なき企業」に相当する国家だったのである。
明治憲法の起草の中心にあった伊藤博文は、もとよりこのことを知っていた。彼の『帝国憲法義解』は、かなり詳しくこの条文を解説している。『義解』の中には「内閣総理大臣」と言う言葉も、その任務も出てくる。
彼の説明に拠れば、内閣総理大臣というのは、天皇の意のあるところを受けて、大政の方向を指示し、各大臣の全ての部局を統轄するものであって、責任も重いのであるが、他の大臣と同様に首相も天皇によって同じように任命されたのだから、主要が大臣をクビにすることはできない。
なぜ、このようにしたかと言えば、ある国においては、内閣が団結した一体となっていて、各大臣は各個の資格で参加しているのでなく、連帯責任と言うことで連なっている。この場合は、団結した内閣が天皇の大権を左右しかねない。したがって、我が国の憲法は、首相の権限が強くなる内閣制度を作らないのだ。というのが伊藤博文の趣旨である。
これは、イギリスのことを念頭に置いたのかも知れない。「イギリスの憲政の本質は、しだいに王権を制限していくことである」ということを伊藤博文は知っていたのであろう。
ところが、伊藤博文の明察をもってしても、この明治憲法の条項が、昭和になってからの軍部の横暴を招くもとになるとは予測できなかった。だが、実際、明治憲法下の内閣は、陸軍大臣一人ごねてもないか区が潰れるような弱い制度だったのであり、このような制度では、憲政は護れなかったのである。
P.28~昭和15年に世に出された清水伸氏の「帝国憲法制定会議」ですが、実は1000部ぐらい出ただけで、たちまち内務省により発禁になってしまったそうです。
「・・・統治の大権は大別して二となる。いわく、法権、いわく、行政権、而して司法権は実に行政権の支派たるに過ぎず・・・」
(略)
しかも、元首(天皇)の意志は直接に国権の表現となることはなく、全て各部機関の輔翼を通じて行われるとしている。さらに、「君主は憲法の範囲の内に在りて其の大権を施行するものなり」と言って、天皇機関説であることも明らかにしているのである。統帥権が政府や議会と並ぶ権威があるなどという考えはまったくない。
昭和15年に明治憲法制定のプロセスを研究した学術書が発禁になった理由もこれで明らかである。昭和15年といえば、日華事変が勃発してすでに3年、満州国が建てられてからすでに8年、統帥権干犯問題からすでに10年である。これらの事件は、全て統帥権が政府から独立しているという憲法解釈に基づいて、日本の軍部が引き起こした事件である。
それが昭和15年になってから、明治憲法では「統帥権は行政権の下につくことになっていたのだ」などと言われれば引っ込みがつかない。しかも、すでに
100万と言われる大軍が交戦中である。とても議論を10年前に引き戻せる状況ではなかった。
軍を軽視していた明治の元勲 P.29~念のために書いておきますが、上記はあくまでも開戦についての日本の内的要因に触れた箇所であり、開戦の要因としての外的要因について著者が無視しているわけではありません。この本では外的要因についても具体的に指摘していますので、後日ご紹介いたします。
それにしても、残念なことであった。もし、明治憲法制定のプロセスがもっと早く解明されていたならば、各条文の意図も明確に把握されていたわけであるから、そうすれば昭和5年の統帥権干犯問題も起こらず、昭和10年の美濃部達吉の天皇機関説も問題化しなかったことであろう。つまり、軍による政治支配は起こらずに済み、日本が戦争に突入することを回避できたであろうという公算は、すこぶる高いのである。
伊藤博文が明治憲法をもう少し詳しく書いてくれていたら、昭和初年の、軍の御用学者による統帥権の珍解釈も起こらずに済んだであろう。この点も、はなはだ残念なことであるが、伊藤が憲法起草に努力していた明治10年代後半の状況を考えれば、それも無理はないといえる。このように、時代が進むにつれてその問題点が顕在化してきた明治憲法ですが、当時、憲法改正の話は出てこなかったのでしょうか・・・?
(略)
西南の役の後に軍人の比重が下がった時に、軍人に対して幅の利く伊藤が起草した憲法なのだから、統帥権といっても、それが首相の権限と同格だというような発送は、彼の頭の片隅にもなかった。なかったから、統帥権が政府から独立して、勝手に歩き出さない歯止めになるような条文を、明文化してつけなかったのである。
(略)
近代日本は、維新の元勲達がこの世を去ってから急に悪くなった、とよく言われているが、その原因はここにあるといって良いであろう。
(略)
明治憲法の第11条が簡潔に過ぎ、しかも、その趣旨を書き記した文書の発掘が10年遅かったことが、昭和前期の日本を軍国にしてしまったのである。風が吹いたら桶屋が儲かるぐらいの因果関係の連鎖は、あるのではないか。
P.35~時代が変わったり不備が見つかれば、やはり法律は見直しされるべきなんでしょうね。
明治憲法は「不磨の大典」と称えられ、そう国民は教えられてしまった。不磨ということは、絶対にすり減らない、つまり絶対に変えられないということに等しい。
もちろん、明治憲法にも、改正に関する規定が第73条にあることはあるのだが、これとは別に憲法発布の勅語があって、ここには、憲法改正のための発議権は天皇にしかないと明記されている。こう書いてあっては、戦前の日本人は憲法の不備に気が付いたとしても、畏れ多くて「憲法改正」などとは、おくびにも出せなかった。
つまり、明治憲法は、文字通り「不磨の大典」であった。その欠陥の故に大戦に入らざるをえなくなり、敗戦になった。そのため、明治憲法はすり減ること(改正)はなかったが、全部廃止されてしまうことになる。憲法は不磨であってはならなかったのだ。
「昭和の悲劇を生んだ統帥権干犯問題」P.22~しかし、明治憲法そのものは、軍が政府に関係なく作戦実行したりできるように作られたわけではありませんでしたし、上記の問題が表面化する昭和五年までは特に騒ぐ人もいませんでした。
統帥権というのは、軍隊の最高指揮権を意味する。明治憲法(大日本帝国憲法)の第十一条には、「天皇ハ陸海軍を統帥ス」とあり、第十二条には「天皇ハ陸海軍ノ編制及ビ常備兵額を定ム」とあり、ついで第十三条には「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及ビ諸般ノ条約ヲ締結ス」とある。これらの条項は明治憲法の天皇大権といわれたものである。
特に第十一条の天皇大権は「統帥大権」と呼ばれ、第十二条の天皇大権は「編制大権」と呼ばれていた。普通の近代国家は行政・立法の三権分立で成り立っているが、軍事は別だとなれば、四権分立と言うことになる。
(略)
編制大権の方は予算と絡んでくるから、内閣や議会から全く独立というわけにはいかないが、統帥となれば、軍の作戦そのものであり、全く政府や議会と関係なくやれることである。
そして、実際に軍部が勝手にやり出したのが昭和の悲劇の、まさに本質なのである。
なぜ、憲法は機能しなくなったのかP.24~つまり、明治憲法が作成された当初は当たり前すぎて問題にさえならなかったことが、第一次世界大戦後の軍縮の時代に入ると、軍縮に反対の軍部は、政府が勝手に軍縮条約を外国と結んでくるのは憲法違反だ、と言い出したわけです。
明治憲法は明治二十二年(1889)に発布されたものである。その後、日清戦争(1894-5)、日露戦争(1904-5)と二度の大戦争があり、大正に入ってからも第一世界大戦(1914-18)があって、日本も参加したが、統帥権干犯問題なとはなかった。
日本は他の先進近代国家と同じく、内閣の責任において宣戦し講話し、予算は議会の協賛を得ていた訳なのである。それに対して、軍は統帥権を振り回して、どうこうするかと言うことはなかった。
なぜか、といえば明治憲法を作った人達は、日本は三権分立のつもりであって、統帥権が独立して四権になるなどとは夢にも考えていなかった。そして大正年代まではそのように運用されていた。
ところが、元勲が政治から姿を消した昭和に入り、ロンドン条約(1930)で日本の軍艦が何隻か削除されることになると、軍人の中でこれに反発する者が多かった。条約を結ぶのは天皇大権(第十三条)で、これは内閣が代行している。しかし、軍備の削減と言うことは、直ちに作戦にかかわることである。つまり、これは統帥権にかかわることであるから、軍縮の条約を政府が結ぶのは統帥権の干犯だ、という主張である。明治・大正時代にはなかった屁理屈である。
こんな屁理屈が通れば、軍部が反対すれば、内閣は国際条約の締結が不可能になってしまう。条約も天皇大権、統帥も天皇大権であるから、全ての分野で天皇が直接に決定する制度ならば、運用できる。しかし、実際上、外交や条約は首相や外相が天皇を補弼して行うし、戦争の指揮は軍部が輔翼して行う。どちらを先にするかの優先順序がなければ、日本政府は外国に対して双頭の蛇になってしまう。こんな事は、明治憲法を作った人達には自明のことだったから、問題にならなかったのである。
それで、昭和五年(1930)四月二十五日、衆議院本会議で、政友会総務の鳩山一郎は統帥権干犯をふりかざして政府を攻撃した。憲法が曖昧であったために、起草者の考えと異なる解釈が広がっていった結果が、軍の暴走を招き昭和の悲劇につながったというわけです。
俄然、「統帥権干犯」という耳慣れない言葉が世間に流行した。そして、鳩山演説から半年ばかり経った昭和五年十一月十四日、ロンドン条約調印の最高責任者と見なされた浜口雄幸首相は、東京駅において、愛国社の一青年、佐郷屋留雄によって狙撃された。公判記録によれば、佐郷屋青年の凶行の動機は、屈辱的ロンドン条約によって神聖なる統帥権が干犯されたと信じての公憤によるものとされた。
一方、統帥権問題を政争の具にした犬養毅は、翌昭和六年の暮、首相となるが、昭和七年五月十五日海軍の青年将校が中心となって起こした五・一五事件で、「問答無用」と叫ぶ青年将校らに射殺された。そして、犬養毅が戦前の政党内閣の最後の首相であった。統帥権干犯問題は、伊藤博文に始まった日本の政党政治の息の根を止めることになったのである。
(略)
このように見ると、大正デモクラシーの時代を通じて、しだいに日本に根を下ろしてきた政党政治を殺したのは、統帥権干犯問題であることは明らかである。
どうして四権分立とも言えるような憲法の条項があったのか。これに対する責任の多くは、起草の中心人物であった伊藤博文にあったことになる。つまり、四権分立のように解釈できるような曖昧な条文に責任があると考えられるであろう
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管理者:J.Seagull
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