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Archive 2006年09月
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「終戦前の日本から学ぶべきは何なのか」シリーズをお送りしようとしている途中ですが、ちょっと番外編エントリーをアップします。
今ネットで騒がれている「
博士の独り言」さんのブログ消失事件ですが、ご本人は
こちらの連絡帳でご無事が確認(?)されていて、独自ドメインでのブログ再開を目指していらっしゃるようです。
一応、本業が一端のネットワーク/セキュリティエンジニアの私に言わせれば、厳密には無事の報告を書いているのが本人かどうかの裏取りが必要で、最悪本人のフリをした別人が新ブログを立ち上げる可能性も残されているので油断出来ませんが・・・。
今回のブログ消失は「博士の独り言」の一愛読者であった私にとっても残念な事件です。事件までの経緯から某団体の犯行という説が有力のようですが、確たる情報が無い状態での犯人断定は避けておきます。
どのような手法で消失させられたかは、「博士の独り言」連絡帳で指摘している方もおられた通り、ID・パスワードを何者かが入手した可能性が一番高いのかなと思います。コメントや記事が徐々に読めなくなり最後に全部無くなったという証言がその理由です。おそらく博士さんのIDでログイン後、記事やコメントを削除していったのではないかと思います。ランキングから消えたのも、ランキングサイトへの登録時にブログ管理画面と同じパスワードを使っていたりすると登録削除は容易です。
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ここからは一般論になりますが、
簡単なパスワードも容易にバレるので注意しましょうってことです。例えば私がFC2ブログでjseagullというIDを取得していることはurlを見れば誰でもわかりますが、仮にパスワードもjseagullだったら、どなたでも勝手にFC2管理画面からログインして自由に書きかえてね♪と言っているようなものですね。また、jseagullをひっくり返してllugaesjとか、歴史関連のエントリーを書くからrekishiとか、簡単に推測できるパスワードも絶対にアウトですね。パスワードは、英数字記号の全てを取り混ぜたり、複雑で長めの物を使うなど、注意しましょう。
※複雑なパスワードなんて忘れちゃうし、そもそも思いつかないよ~と言う方の為に、パスワードを決めるヒントをエントリーの最後に紹介します。
また、自宅以外のPCでログインするときも要注意です。ログアウトするのを忘れたり、うっかりブラウザにパスワードを保存してしまうこともあるからです。下記のように、偶然入手してしまったMixiのID・パスワードで人のプロフィールを書き換えたことを自慢げにオーマイニュースの記事にしている
実名の市民記者もいるくらいですから・・・
OhmyNews:Mixiも信用できない
さて、くだんの22歳男性N・Yの自己紹介ページだが、私はそこに「昨日はアメリカの大学に在学中でしたが、今日はIT企業の社員です。肩書きは毎日適 当にくるくると変わります」と書き加えてやった。いたずら、というか、騙り男に一罰、というわけだが、この程度の改ざんは許されることだろう。
いえいえ許されませんってば。立派な「
不正アクセス禁止法」違反でございます。
無料で利用できる街中のPCでたまたまMixiにログインしっぱなしだったのを見つけ、そのMixiユーザーのプロフィールを勝手に改ざんしてるんですね、この実名市民記者さんは
(-_-;) (どうやら、一部では有名な方のようですが)
しかしこの記事、とっくの昔に削除されているだろうと思っていたのですが、今日見たらしっかりと残っていることにもあきれましたよ>オーマイニュースさん
ちなみに、どのような手段で入手したID・パスワードであろうと、それを利用してログインし電子記録を改ざんすることは、「
不正アクセス禁止法」に抵触しますのでご注意下さい。
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さて、他人にわかりにくいパスワードをどうやって考えるか、ですが、ひとつは
パスワード生成ソフトを使うことがあげられます。フリーの物が沢山あるのでそれを利用するのも手です。
あとは、自分が思い出しやすい英文などの頭文字をつなげる等の方法があります。
「I like baseball very much」という文章の各単語の頭文字を取って「Ilbvm」とか。
住所などでも応用できますね。職場や学校、実家の住所などブログ内容とは一切関係のない住所をひとつ決めてその頭文字をひとつずつ取っていく。
例えば、「東京都千代田区永田町1-7-1」だったら「Tokyoto Chiyoda Nagatacho 1-7-1」から「tcn1-7-1」とする。そしてさらに最後に記号を付け加えて「tcn1-7-1#」としてみたり、ハイフンを別の記号に置き換えて「tcn1#7#1」としてみたりするだけでパスワードのセキュリティはアップします。
これなら一見複雑そうに見えても決めた自分は覚えやすいでしょう。
というわけで、ブログを書いている方は気をつけましょう。
以上、番外エントリーでした。
一応書いておきますが、博士さんのパスワード管理が甘かったと断定している訳でも批判している訳でもありませんので念のため・・・。参考リンク:
Birth of Bluesさん「オーマイニュース記者 自身の「インターネット犯罪手口」を大胆暴露」このエントリーがお役に立ちましたら、クリックしていただけると嬉しいです。
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前回の予告通り「日本史から見た日本人 昭和編」からご紹介しようと思いますが、私はこの本には前書きの部分から引き込まれました。
P.8~
戦後ずっと私の頭を離れなかった「昭和史の謎」とは何かといえば、どうして日本人は日露戦争の時代から見ると、あんなにも外交下手になったのか、また非統治能力を失ったのか、ということであった。
それは日本が驕慢になったからだ、とも言えるが、当時の日本のリーダー達だって、日本と英米の国力の差ぐらいは知っていたはずである。
第一、海軍が反対だったというのに太平洋で戦争が始まったというのもおかしい。要するに、明治や大正のことは政治も軍事も、一応理解できるのだが、昭和となると、訳のわからないことが多すぎるのだ。どうして陸軍中佐や大佐(今の一佐や二佐)ぐらいの軍人が出先で戦争を起こすと、その上の軍人も首相も、それを抑えることができなかったのか。
言われてみればその通りで、よく言われる「軍部の暴走」を抑える力がどこにも見えてこない、「なぜなんだろう」というのは素朴な疑問として持っている方も多いかもしれませんね。それに対し著者の渡部昇一氏は次のように結論を出しています。
そんな疑問を四〇年間も頭の中でこね回しているうちに、日本がおかしな行動を取り出すのは昭和五年-私の生まれた年-を境にしていることに気づいた。では、昭和五年に何があったか。
統帥権干犯問題があったのである。軍のやることを政府が抑えることができなくなったのだ。日本はこの年を境にして、ダブル・ガバメント(二重政府)の国となる。
しかし、変ではないか。昭和五年までは、日本は決して二重政府ではなかったのだから。
「
統帥権干犯問題」・・・「統帥権」とは、軍を統括する能力を行使する権利で、「干犯」とはその権利を侵すことですね。
では、どうして統帥権干犯問題が起こったかと言えば、明治憲法には統帥権は天皇直属と書いてあるからである。つまり、軍は政府の下にあるわけではないというのだ。軍が政府から独立しているなどという話はおかしいし、昭和五年までは、そんなことを問題にすることもなかった。しかし、そんな解釈ができるような条文があるのなら、明治憲法が悪いのではないか。
そう思って明治憲法を読んでみたところ、驚くなかれ、明治憲法には首相(総理大臣)という言葉もなければ、内閣という言葉もない。あるのは国務大臣だけである。つまり、明治憲法は行政府についての明確な規定のない欠陥憲法だったのだ。
では、その欠陥がなぜ昭和五年まで表に出てこなかったのか。それは明治憲法を制定した人や、その制定趣旨を直接に耳で聞いた元老達が生きている間は、当初からの慣習が生きていたからである。そうした元老が死に絶えた頃になって、欠陥憲法の条文が独立横行し始める。統帥権は憲法に明確に規定されているのに、首相は憲法に基礎をおかず、単なる官制に拠るに過ぎないとすれば、首相は軍を抑えることができない。
ここまでは日本国内の問題でして、さらに悪いことに外部からの圧力という要因も加わり、あの戦争に突入してしまったというわけです。この外部の圧力について、著者は「アメリカの日系移民排斥問題」、「アメリカのホーリイ・スムート法をきっかけとした世界大不況とブロック経済圏」、「支那大陸の排日・侮日運動による非帝国主義的な幣原外交の終焉」としていますが、この話は第二章で出てきます。
次回は、明治憲法の欠陥と統帥権干犯問題について、より詳しい部分を引用してご紹介しようと思います。また、ちょうど「
溶解する日本」さんが昨日のエントリー「
帝国憲法と解釈改憲、その今日的教訓」で触れていらっしゃいました。
「統帥権」、僕にとってはこれこそが「我々自身が我々の頭で反省すべき戦前」の根っこ
私も、この本を読み進めるうちに同じ思いを強くつつあります。
なぜそう思うのかは、今後のエントリーに記していこうと思います。また「溶解する日本」さんのエントリーも合わせて読んでいただくと興味深いと思います。
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日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎渡部 昇一
先日私が訪れた万世特攻平和祈念館には来館者ノートがあり、それをめくってみたら、おそらく社会科見学かなにかで訪れたのでしょうか、小学生の感想がたくさん書き込まれていました。そして、そのほとんどが次のようなものでした。
「こんな悲惨な戦争はイヤだ」
「戦争は絶対にやってはいけないと思った」
「戦争のない平和な世界を作らなければならないと思った」
戦後生まれの子供達の感想としては当たり前だと思います。また、限りなく100%に近い日本人がそう思っていると思います。
(サヨク(?)の人達は、右翼や保守を「戦争したがっている」と批判していますが、それは誤解であり「平和」を実現する「手段」の違いだと思います。)
また、時代が違うのですから特攻兵の「お国のために」という想いを戦後生まれの小学生の世代で理解するのは無理があるかなと思います。大人になって知識が増えてくると英霊のその心情に思いを寄せることはできるようになりますが。。。
ところで、この「お国のために」という言葉は特攻隊員の遺書に良く出てくるフレーズなのですが、それは果たして当時の一般的な価値観だったのかそれとも洗脳教育の成果なのか・・・。
この点について、私が今読んでいる本に「なるほど」と思わせられた箇所がありましたので紹介しておきます。
戦前の日本人は、極めて誇り高く愛国的な国民であった。それは有色民族でただ一つ、白人の植民地大国と平等の地位を実力で勝ち取ったと言うところから来ていた。その原因といえば、明治維新の成功から来ていると思っていた。
植民地や租借地を欲しがっていた虎狼のごとき列強に狙われながら、素早く封建制から近代国家に変身し得たのは、皇室というナショナリズムの中心があったからだと言うことは、国民全体の総意と言うより、実感であったといって良い。それに家族意識の強い時代であったから、皇室は日本人の全ての家族の総本家という意識もあった。堅く言えば、こう言うのを犠牲家族国家と呼びうるであろうが、それが多くの国民の感情であったことも確かである。
(「日本史から見た日本人 昭和編」 渡部昇一 P.221)
私はこの部分にとても納得させられました。戦前は日本人の間に「日本(≒天皇)のために役立ちたい」という価値観が自然に身に付いていたのではないのでしょうか。また、日本を急速に近代化させた先人達への畏敬の念もあったでしょう。
特攻隊の遺書については、「書かされた物だ」とか「検閲があったのだから本音のはずがない」という人もいますが、明日死ぬことが確定している時に検閲をおそれる理由がありましょうか? 当時の価値観から考えれば、やはり本心から「国のため」「国を守るため」と思って散華していかれたと考える方が自然かと思います。
一般的に、大東亜戦争についての知識を習得していく時は、その悲惨さから入っていくことが多いと思います。そして、その悲惨さを知った時点で戦争に対するイメージが固まってしまい、悪く言えばそこで思考停止してしまっている人は少なくないと思います。平和な時代に生きる人間にとってはあまりにその衝撃が大きすぎるからかとも思います。(ほんの数年前の私だってそうでした。)
その悲惨さは伝えていかなければいけない、しかしそこから一歩踏み出して、あの戦争の要因には何があるのか、当時の人達はどう考えていたのか、それらを知識として持つことは大切なことだと最近つくづく感じています。
そう言う訳で、また私が参考になったと思う本の紹介を再開したいと思います。
今回引用紹介していくのは、上述した「日本史から見た日本人 昭和編」です。私のような無知な者にとって、歴史の出来事をその因果関係を指摘しながら時系列で解説していくスタイルのこの本はとても参考になります。著者の渡部昇一氏の文章はいつもとても読みやすいので理解しやすいことも助かります。
(もちろん一つの本を鵜呑みにするのはリスクがありますが、今後も幅広く情報収集することで知識の検証は必要と認識しています。)
実はこの本は読んでいる途中ですので、今後何回この本の関連エントリーが続くか私にもわかりません(笑)
ただ、どのようなエントリーになるのかその目安として、目次を紹介しておきます。(全部引用紹介するかどうかはわかりません)
1章 総理なき国家・大日本帝国の悲劇 -「昭和の悲劇」統帥権問題は、なぜ、起きたか
(1)明治憲法に隠された致命的欠陥
(2)なぜ、議会制民主主義は崩壊したか
(3)軍部が無能者集団と堕した真相
2章 世界史から見た「大東亜戦争」 - 3つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた
(1)反米感情の”引き金”は何か
(2)保護貿易主義と世界大戦との相関
(3)排日運動の激化と大陸への出兵
(4)満州国建国の真実
(5)第二次世界大戦-常識のウソ
3章 国際政治を激変させた戦後の歩み - なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場は逆転したのか
(1)敗者の悲劇-「東京裁判」と「南京大虐殺」
(2)「日本型」議会政治の奇蹟
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日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎渡部 昇一
先日のエントリーを書いてからもなお、国旗・国歌についていろいろ考えるところがあったので、引き続きこの問題についてエントリーしておきます。(歴史本の紹介を期待している方がいたらごめんなさい。準備はしていますので(汗))
先に私自身について書いておきますが、日本という国が好きですし、日の丸も君が代も好きです。もっと多くの日本人が自分の国のことを好きになって、国と対決することばかりを考えるのではなく日本はどうあるべきかを前向きに考えるようになれば、いろいろな問題を抱えていても日本はもっと良くなる、そう考えています。
しかし、その一方で日本の国旗が嫌いな日本人をすべて否定する気にはなれません。端的に言えば、「あの戦争さえなければ私の息子は死なないで済んだんだ。日の丸なんて見たくもない」と言うお年寄りに向かって「それでも日本人か!」「反日的だ」等とは間違っても言えないからです。
もちろん、あの時代のこと、「男子に生まれた以上、畳の上で死ねると思うな」と教育する母親もいたそうですし、先週のエントリーで少し触れた松尾敬宇中佐の母君は戦後シドニー湾を訪れて「母は心から褒めてあげますよ。よくやってくれました。」と涙ながらにつぶやいたと言います。また俳優の三國連太郎さんは、戦時中に徴兵を忌避して家出、家族が心配しているだろうと思い手紙を出したら、その手紙を受け取った彼の母親はなんと憲兵に息子の居場所を連絡、連太郎さんは特高警察に捕まったという話もあります。(三國連太郎さんの自伝「生きざま 死にざま」より)
そう言う親達がいる一方で、息子を戦争に送り出した親が全てそうだった訳ではありませんし、家族を戦争に送り出していない家庭でも、空襲や原爆で家族を亡くしたり、特に沖縄の逃げ場のない島で四方を米軍に囲まれやむにやまれず家族を殺してから自決しようとして失敗、その苦悩を抱えたまま戦後を生きた人達などに、「日の丸を否定するとは何事だ!」とか「反日的だ!」などとは私は言えません。
それだけあの戦争の悲惨さは日本以外の国を含め、多くの人々の中でまだ生々しく残っているのは否定しようのない事実だと思います。
ところで、国旗国歌問題や皇室、安全保障等の問題だと特にそうですが、自分と違う意見を偏向と決め付けがちなのは右も左もおんなじかなと思います。誰しも自分が正しいと思っているし、ある事柄についての思い入れが強いほどそうなる傾向は、人間としてやむを得ないと思います。しかし、それぞれの前提知識や考え方の背景もみな違うのですからいろいろな意見があって当然だし、対抗する意見を尊重し咀嚼してから議論したほうが良いと思います。
私が一番避けたいと思うことはやはり「全体主義」ですね。何か行きすぎがあってもブレーキが効かなくなる状態こそ一番避けるべきであり、それが現代人が過去から学ぶべきことだと私は考えています。だから、いろんな考え方があることはむしろ健全な証拠と言っても良いのかもしれません。
(ちょっと話がずれてきました。)
ただしいろんな意見を認める一方で、 教師という立場を利用して生徒達に持論を押しつけるやり方はやはり看過できません。「思想信条の自由」という権利を持ち出して論点をずらているからあの訴訟には違和感を感じるんですよね。本来問われるべきは特定の団体が教師という立場で思想信条の自由を盾に自らのイデオロギーに引き込もうとしていることと、教育現場の「秩序」を乱していることでしょう。まるで文化大革命時の紅衛兵のごとく、校長をつるし上げ自殺にまで追い込む教師をまともな教師として認めるわけにはいきません。
「秩序」という意味では、前のエントリーのコメント欄で書いたのでここではあえて繰り返しません。ただ、卒業式の壇上に上がって日の丸を降ろしたり騒いでいる教師の映像を見ると、私はどうしても昨今の荒れた成人式を連想してしまうのですよ。秩序もへったくれもないあの新成人達は、あのような教師を見習っているのかな~って気がするのは私だけでしょうかσ(^^;)
私だって、自社株が低迷している時に同業他社の株で「儲かった♪」などと喜んでいる我が社の大馬鹿役員の朝礼の訓示も一応起立し我慢して聞いているフリをしているのです(笑) その役員に抗議するなら別のしかるべき場で行うのが筋で、朝礼の場で一人突然抗議の声を張り上げたりして場を乱すのは、社会人としての自らの信用を損なうだけでなんの解決にもならんでしょう。まぁ、テレビドラマだったら絵になるかもしれませんが(苦笑)
軟弱者と思われるかもしれませんが、これでも会社では言いたいことを言っている方なんですよ。もっと若いときは自ら「俺は不良社員だ」って言ってましたから(^^;あと、彼らは日本の国旗や国歌を否定することが平和教育のように言っていますが、戦争や戦前が悪かったというなら、なぜそうなったのか、そうならないために未来に向かってどうすべきかを考えたりそのための材料を示すべきであって、史実を隠したり糾弾することではないはずです。史実を否定して消し去ったり隠したりするのでは、いずれその反省さえされなくなってしまうと思うんですけどね。つまり子ども達から学習の機会を奪うことになっているのですよ。正義感のふりして子どもの権利を奪うのは止めて教師ならもう少し賢くなって下さいよ。それよりも某団体での昇格やポスト獲得が目的なら教師の資格は捨てて下さい。
なんか文章がうまくまとまりませんが、いろいろな意見は尊重されなければならないが、特に教師という立場で生徒にイデオロギーを押しつけたり社会秩序を軽視する人間を増やすのは止めてくれって事です。
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エントリーでちょっとだけ触れましたが、実は私は買ってません(^^ゞ 立ち読みしただけっす。
↓↓↓
生きざま 死にざま三國 連太郎
久々のエントリーです。
仕事が忙しかったのもありますが、実は遅めの夏休みをとって旅行に行っていました(^^ゞ
広島 → 鹿児島 → 熊本と回ってきたのですが、「大和ミュージアム」や「知覧特攻平和会館」、「万世特攻平和祈念館」なども見てきたので、ちょっとだけ写真なんぞをUPしておきます。
(携帯のカメラなので画質は良くないです)
まずは「大和ミュージアム」(正式名称は「呉市海事歴史科学館」だそうです)



下は、左が「知覧特攻平和会館」、右が「万世特攻平和祈念館」(屋内は撮影禁止でした)
両方とも土曜日に行ったのですが、知覧は有名なので入館者も多かったのですが、万世の方は知名度が低いのか私の他に2~3人しか客がいませんでした。


ちなみに、特攻兵というと下の
子犬を抱いた17歳の特攻兵の写真(出撃前日に朝日新聞記者が撮影)が有名ですが、彼らは知覧ではなく万世の方から飛び立ったそうです。(写真中央の
荒木幸雄さんが実家に送った遺書の消印から判明したらしい)

鹿児島の後は熊本に寄って阿蘇観光をした後、ふらりと「菊池神社」というところに立ち寄りました。余談ですが、私の両親は山形出身で親戚も東北にしかいないのですが、苗字から考えて私の遠い先祖は熊本のこの地方で暮らしていた可能性が高いと最近知ったからです。
で、その菊池神社の境内にあったのが下の写真の「軍神松尾敬宇中佐」の説明です。オーストラリアシドニー湾に特殊潜行艇で攻撃に向かい戦死、その勇敢さに対しオーストラリア軍も敬意を表したという話です。

これを見るまでは忘れていたのですが、松尾敬宇中佐については以前「Let's Blow! 毒吐き@てっく」さんが紹介されていました。興味のある方はそちらもどうぞ。
その他参考リンク:
特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(Wikipedia)
特殊潜航艇/松尾敬宇
全然関係ないおまけ写真(笑)

今年の3月にタイで買ってきたクリスタルキーホルダー。
9月19日の晩に落として割ってしまったのですが、奇しくもその時タイではクーデターが発生していました・・・ すごい偶然(^^;
たまには、こんなエントリーもあっていいでしょう(^^ゞ
次回からは、また本の紹介などを行っていく予定です。
最近更新が滞っていてすみません。
ちょっと今月は忙しくて、あまりエントリーを書く時間がとれそうにありません・・・。
いつもご覧いただいている方には申し訳なく思っております。
近いうちに落ち着くと思いますので、再開まで今しばらくお時間くださいませ <(_ _)>
先日、コメント欄にて当ブログのリンクの乱れをご指摘いただきましたので、修正いたしました。自分の過去エントリーに貼ったリンクはことごとく乱れていたようで(汗)、今まで混乱された方にはお詫び申し上げます。
あと、
先日取り上げた沖縄集団自決関連のエントリーで曾野綾子氏の著作「集団自決の真相」は
1992年の「ある神話の背景」の復刊と書きましたが、実はこれが2度目の復刊であり、
一番最初に発刊されたのは1973年(昭和48年)だったようです。随分昔から軍命令による自決に対しての疑問が提示されていたわけですね・・・。
また、この問題については
「沖縄集団自決冤罪訴訟」として争われているわけですが、その第5回目の公判が9月1日であることもコメント欄で情報をいただいておりました。その公判についての報道を探してみたのですが、ネット上には下記の琉球新報の記事しか見つけられませんでした。
軍命存否で対立 「集団自決」訴訟
沖縄戦で「日本軍の指揮官の命令で慶良間諸島の住民が集団自決した」とする本の記述は誤りで、名誉を傷つけられたとして、当時の指揮官の1人と遺 族が出版元の岩波書店(東京)と作家の大江健三郎さんを相手に、本の出版差し止めと損害賠償を求めた訴訟の第5回口頭弁論が1日、大阪地裁(深見敏正裁判 長)であった。軍命の存否をめぐり、双方の主張が今回も真っ向から対立した。
原告側の指揮官、遺族側は「『集団自決』命令がなかった」と記した体験者の署名について、その正当性をあらためて主張した。
被告側の岩波、大江さんは、米軍が上陸した場合、日本軍が秘密保持のため住民とともに玉砕する方針を採り、玉砕(自決)を命じていたと指摘。「米軍の攻 撃を受けた住民は、自決のために集められた後、手りゅう弾を手渡され、追い込まれた。住民は軍イコール隊長の命令により自決した」と書面で反論した。
さらに座間味島の「集団自決」について、座間味村が新聞社の問い合わせに「公式に軍命令があった」と回答していたことを挙げ、「軍命令は援護法適用のための方便」という原告側の主張を否定した。(琉球新報 9/2 16:04)
産経新聞の照屋氏の証言についての言及もなく、なんら新情報のない記事ですね。産経新聞も9月1日の公判については取り上げなかったのでしょうか?
参考リンク
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!
曽野 綾子

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今週は人様のブログでいろいろと考えさせられることの多い週でした。てっくさんの「
沖縄戦自決報道について」ではおやびんさんの指摘にドキッとして反省したり、佐藤守氏の「
砂上の楼閣?だった防衛力」では振り子の話に感動、Meine Sache ~マイネ・ザッヘ~さんの
このエントリーにはその分析力と筆致に唸らされたりと、とにかくいろいろ考えることが多くて頭の中を整理するのに大変でした(^^;
そんな中で、久々に
原田議員のブログでコメントを残してきました。原田議員は、今年4月の中国との会談で日本の誇りと国益を胸にと正論を堂々と展開したことが産経で報道され、ブログランキングでも注目を集めていました。しかし
7月23日のエントリーで私論「公的分祀」を発表以来、それまでとうってかわって批判のコメントの方が多くなってしまった方です。「公的分祀」論の内容についてはご本人のブログを見ていただければと思いますが、
「靖国問題で日本人がやかましく議論することが英霊に対して心から申し訳なくとても悲しい、こんな議論は止めるべき、しかし国論が真っ二つになっている以上、静かな靖国を取り戻すための最大公約数的な方法として『A級戦犯を公簿抹消したと宣言』するのはどうか」、というのがその概要のようです。(中韓の靖国参拝への干渉に対しては、一切はねつけるという御意見)
我々のように自分の意見を好き勝手に主張していられる立場と違い、国民の意見を代表する議員として、何とかそれを調整しなければならない、議論の落としどころ、妥協点を見いださなければならないという想いもあってのことかと思います。また、靖国神社のことで日本国内が喧々囂々の議論するのは止めるべきだというお気持ちも共感できます。しかし「
国論が二分しているから」という理由には、どうしても納得できません。
「世論とはなにか」というような勉強を私はまだしたことがありませんが、マスコミや特定のイデオロギーを持った集団の影響力が強い状態の国民の意見が本当の世論といえるのでしょうか?過去においてはそれがやむを得なかったとしても、それがもたらした悲劇や過ちから学ぶべきは、国民に正しい情報を伝えることの大切さではないでしょうか。 日本人がみな歪められていない情報の元で、なお意見が真っ二つになっているのなら問題ないと思います。しかし、南京大虐殺や従軍慰安婦、沖縄の集団自決への軍命令の件など、事実かどうかも定かでない情報を、教科書などで事実として教えられてきた人達が多く存在する今の状態の世論を考慮して、国の根幹に関わる事を急いで決めようとすることに危険を感じるわけです。
正常な民主主義の為には、正しい情報がもたらされていることが理想であり大前提でしょう。何者かに操作されたままの世論で国政が動いていては、過去の失敗例に何ら学んでいないといえるのでは?
最後に
以前のエントリーでも紹介した、アメリカのジョンソン大統領の至言をもう一度引用しておきます。
この国がうまくいくかどうかは真実を広めるメディアにかかっています。
その真実に基づいて民主主義の決定はなされるのです。
アメリカの報道機関は、真実を知らせる自由と誠実さ、
そして責任を決して妥協することなく保たなくてはならないのです。
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先日、
Let's Blow! 毒吐き@てっくさんの
このエントリーを拝読した時、印象に残った部分がありました。少し引用させて頂こうと思います。
あっしは、日中戦争には多分に侵略戦争的側面があると思ってる。
ただね、日中戦争があったからこそ中国が「半植民地状態」から抜け出せたこと、みんな言わない。
(略)
ガッコで教わるのはこんな感じ・・・
アへン戦争に敗れて以後、列強の清国に対する要求は激しくなり、いたるところ租界(清国の統治権が及ばない地域)だらけとなった。
要するに「清国は半植民地状態だった」とは習うのね、だけど、いつ、どんな経緯で中国が半植民地状態から抜け出たかっていう知識は教わらなかった。 清国が中華民国になって以降、租界の回収は積極的に行われてた。
でね、租界返還の仕上げをしたのは日本なんだよ。
「
租界ってなんじゃ?」という方は、
こちらをご覧ください。当時の地図と写真入りで詳しく解説されていますのでとても参考になります。
「租借地と租界」で、前にも取り上げたコリン・ロスの「
日中戦争見聞記―1939年のアジア」の中に、租界の様子を表した部分があったのを思い出したので、またまた引用してみたいと思います。
上海の栄光と悲惨 P.204~
上海の共同租界内で日英両軍の警備分担区を隔てる細かい蘇州河にかかるガーデンブリッジの中央部に、日本軍の歩哨が立っていた。歩哨のかたわらを中国人達が果てしなく通っていた。自転車に乗っているものは自転車から降り、自動車は人間と同じ速度にスピードを落とした。誰もが、富者も貧者も、地位の高いものも低いものも、小柄で貧弱な日本兵の前に来ると一様に深々とお辞儀をした。
日本兵は直立不動の姿勢で前方を見つめ、天皇の代理人として、この卑屈な挨拶を受けていた。
橋の末端では-ここも共同租界内であった-イギリス兵が監視していた。ダラム(イングランド北東部の都市)連帯所属のこの大男の兵士は、日本兵よりも頭一つ半ほど大きかった。だが、このイギリス兵に注意を向けるものは一人としていなかった。人々は無視したように彼の脇を流れた。彼はただ、先を急ぐ人々の群れに突き飛ばされまいと身構えているようであった。彼はいささか不愉快な表情を見せて、ある時は人々の群れに、ある時は日本兵に目を向けた。その顔は、「一体、何のために俺はここに立っていなくてはならんのか?」と問うているようであった。
同じような想いは、通行人の胸にも去来した。いったい、何のためにイギリスは、すでに失った東アジアの前哨にしがみついているのか?イギリス人以外の人間の思いは、どうやら当のイギリス人には思いも及ばないようであった。
ガーデンブリッジ上の日英の歩哨の役割と態度が両国の力関係を象徴していることを、イギリス人にはわからない。日本兵の足もとにはありとあらゆるものがひれ伏すが、イギリス人など、中国人の苦力(クーリー)さえも無視できるものと思っている。現実が過酷すぎて、イギリス人はこのような急変が飲み込めないらしい。
イギリス人が単におのれの支配を絶対確実と思ったばかりか、彼らが奪った市街地区の住民よりも当然はるかに優れていると思ったあげく、租界の公園の入り口に「犬と中国人は立ち入り禁止」と掲げたときから、すでにどれほどの時間がたっているだろう?イギリス人の行動は、特別な悪意や、中国人に対する侮蔑の感情のためではなかった。私に言わせれば、それは天真爛漫な無邪気のなせるものだ。
イギリス人は他の肌色をしたあらゆる人種と同様に中国人をはるかに見下し、「有色人種」がこうした扱いに憤慨するかもしれないと考えたことすらなかった。だからこそ、つい最近まで共同租界の大ビルの白人専用エレベーターからは、たとえ上海市長でも中国人が閉め出されていた。
(略)
確かにイギリスは、アヘン戦争以後、中国から上海を奪ったが(公式には租界と港湾権を委譲されたのだが)、当時、上海は沼沢地の多い低地にある貧しい漁村にすぎなかった。実際に手を下して公園施設を作り、高層ビルを建築したのはイギリスである。その後、欧米各国も手を貸したし、最後には日本も加わった。
イギリスは、中国から奪った港を各国に解放し、イギリス租界を共同租界に切り替えた。その真意は、博愛精神とはほど遠く、自由貿易を標榜するイギリスの思惑から来ている。
(略)
だが、イギリス主導下の共同租界は、今日ではすでに昔日の面影はない。共同租界の往時の栄光を知るものには、それは一目瞭然であろう。東アジアにおける白人の輝ける一大貿易中心地、イギリスの権力の聳え建つ城塞はもはや昔日の残映にすぎない。
国際都市上海は、ただ日本のお慈悲にすがって生きている。今日、揚子江を航行すれば、すぐにずらりと並んだ日本の軍艦の脇を通過することになる。他を圧して巨大な巡洋艦、水雷艇、輸送船、そしてありとあらゆる種類の補助艦が、数珠繋ぎになって停泊している。
このような印象的な日本海軍の結集に対しては、英米仏の数隻の河川用の砲艦はまったくみじめだ。かつて英米仏はこれらの砲艦で東アジアに強力な睨みをきかせていたが、いまでは、おずおずと湾岸に身を寄せているだけだ。
今なお堂々たるイギリスの高層ビル、ホテル、銀行、それに大商社ビルが川岸に聳え建っているが、もはや何の意味もない。かつて上海の富を生み出した後背地域(ヒンターランド)はいまや日本の手中にある。日本人が黄浦江を管理し、日本の許可なくしては一隻たりとも上海の先へ進むことはできない。
当時の光景が目に浮かぶような内容ですが、日本であまり触れられていない部分※にも光を当てるお役に立てればと思い、紹介しました。
(※ 単に私が知らなかっただけかもしんない(汗))
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日中戦争見聞記―1939年のアジアコリン ロス Colin Ross 金森 誠也

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