東京にも、米軍機の機銃掃射による無数の弾痕を残した建物が保存されている場所があることを知り、さっそく行ってみましたので、撮ってきた写真とともにご紹介します。
場所は東京都東大和市の都立東大和南公園の中で、戦時中は日立航空機(株)として航空機のエンジンを製造する軍需工場だった場所です。
軍需工場であったため、3回に渡って米軍機の攻撃を受け、110人の方がここで亡くなったそうです。
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「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(カエサル)
「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」 (内田 樹)
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東京にも、米軍機の機銃掃射による無数の弾痕を残した建物が保存されている場所があることを知り、さっそく行ってみましたので、撮ってきた写真とともにご紹介します。
場所は東京都東大和市の都立東大和南公園の中で、戦時中は日立航空機(株)として航空機のエンジンを製造する軍需工場だった場所です。
軍需工場であったため、3回に渡って米軍機の攻撃を受け、110人の方がここで亡くなったそうです。
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前回紹介した宇佐海軍航空隊のあった地域ですが、こちらの記事によれば、16回以上もの米軍 の空襲を受けています。
その傷跡が掩体壕のあった近辺にいくつか残されているとのことで、足を運んできました。
(下の写真は、すべてクリックで拡大(Picasa WebAlbumへのリンク)します。
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今回転載するのは、戦争の終わらせ方についての反省の部分です。
「太平洋戦争はもっと早く終わらせることはできなかったのか」という問いかけは、しばしば目にするところです。「緒戦の思わぬ大勝に調子に乗ってしまった、あの時に講和に持って行ければ・・・」という話も見かけますが、戦争も外交も相手のあること、こちらの都合の良い状態(イコール、相手の不利な状態)で終わらせることなど至難の業と言えそうです。
ましてや、あの戦争では、特に。
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日本と米英の対立を決定づけたのは、前々回の日独伊三国同盟ですが、この仏印進駐、とくに南部仏印進駐はアメリカの日本への石油輸出禁止措置を招きました。
アメリカがそこまでするとは思わなかったと回顧する声もあるようですが、日本の行動が他国にどのように映るかという視点が欠けていたということなのでしょうか・・・。
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今回は 、日米開戦に向かう歴史の流れの中で、ポイント・オブ・ノー・リターン(引き返し不能点)とよく指摘される、日独伊三国同盟についての章を転載します。
この章では、日本の国際情勢への認識の甘さ(浅さ)と、外交の拙さが、あの戦争の大きな要因になっていると認識していると思われます。
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管理者:J.Seagull
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